イアン・マキューアンの新刊『恋するアダム』(新潮クレストブックス、訳/村松潔)がでた。原題は"Machines Like Me"。人工知能がテーマの小説ということで興味をそそられて早速読む。
舞台になるのは、この世界とは別の歴史をたどった架空の1982年ロンドン。イギリスはフォークランド紛争に負け、アラン・チューリングは生きている。人工知能の技術はめざましく進んでいて、わたしことチャーリーが購入した最新のアンドロイド「アダム」を購入するところから物語は始まる。
購入後には各自で性格のパラメータを調整する。そこでチャーリーは上階に住むミランダと半分ずつ設定することにした。好きな人との共同作業。まるで遺伝子をひきつぐ子供のようだ、という想像もめぐらせる。それから2人はアダムをきっかけにして距離を縮めて、恋愛に発展していく。
しかしあろうことか、アダムがミランダに恋をする。チャーリーは上階の寝室にいるミランダとアダムの気配を感じ取ってしまう。
階段を駆け上がって、彼らを制止することもできただろう。しかし、わたしが置かれている立場にはドキドキさせられる一面もあった。これは単なる欺瞞や浮気の発覚ではなく、じつにオリジナルな、現代の先端を行く体験――人工物によって寝取られた史上初の男になるという体験――だったからである。
ここでなぜ怒りや嫉妬が湧き起こるのかといえば、アダムを人間としてみているからだ。自分と比較できないものに嫉妬することはない。アダムが機械だとわかっていても、割り切ることができない。
わたしの怒りを正当化するためには、彼が行為主体性、動機、主観的感情、自己認識――背信、裏切り、欺瞞を含む一連の認識――をもっていると信じる必要があった。機械の意識――そんなものが可能なのだろうか?この古くからの問題。わたしはアラン・チューリングのプロトコルを採用することに決めた。
アダムには意識があると無意識に思ってしまう。人間の認知はそれほどにあいまいである。それはいいことばかりじゃないけど、悪いことばかりでもない。意識を感じ取ってしまうからこそ、感情移入や共感が起きる。それゆえにアンドロイドや偶然出会った子供と家族的な関係をつくることができる(つくってしまう)、という話でもある。
ほかにも、嘘をついたり、復讐をするような人間の感情をアダムは理解しない。功利主義、法の支配を基準に考えているので意見が食い違う。グレーゾーンの議論をしていると”正論マシーン”になってしまう。この食い違いから、感情をともなう不合理さこそが人間性として浮かび上がってくる。
マーカス・デュ・ソートイ『レンブラントの身震い』(新潮クレスト・ブックス、訳/冨永星)は、数学者が書いたAIについてのノンフィクション。原題は"The Creativity Code"。AIは創造性を獲得できるのかという問いを考えていく。
著者はアルファ碁の能力をみて、実存の危機にさらされる。囲碁のような複雑なゲームにAIが対応できないうちは数学者も安泰と見ていたが、いよいよまずいかもしれないというわけだ。そうした当事者の目線で、AIによる創造性へのアプローチをみていく。
創造性とはなにか。3つの要素をあげている。①新しい、②人を驚かせる、③価値がある。題材は芸術から数学のほうへと向かっていく。各パートにはアルゴリズムの丁寧な解説があってありがたい。
音楽や絵画の領域では、人間の作品をAIに学習させることで驚きをもたらすような新作がつくられている。作者を伏せた状態で、人間の作品より優れているという評価もある。よくある話として、AIは人生経験がないから優れた表現はできないという批判があるが、それは部分的に乗り越えられている。
音楽に感情を持ち込むのは聴き手である。芸術作品を生み出すうえで聴衆や観衆や読者が果たす役割は、しばしば過小評価される。多くの作曲家が、感情的な反応を生み出すのは音楽の構造だと主張する。だが、人は感情をプログラムするわけではない。
感情は音楽にではなく、聴き手に属する。プログラムは感情を理解する必要はなく、構造を真似すればよい。感情は受け手の創造性によって喚起される。なのでもしAIが優れた観客になることができれば、優れた作家になれるはずだ。
しかし現状の機械学習では、学習データに基づいた模倣や曲のフレーズレベルで新しいものを生み出せていても、大局的な構造を作り出せていないようだ。学習データから離れて、新しい価値を選び取ることに難しさがある。
では数学はどうか。形式言語をつかった定理の証明などの実践がすでにあるらしい。数学は純粋に論理的なものであり、いかにも機械が得意そうにも思えるが、そうではないという。著者いわく、それは単に正しい言明の羅列であり、数学をすることとは違う。
数学は、数に関して発見しうる正しい言明のすべてを網羅した一覧ではない。こういってしまうと、数学者ではない人のほとんどがショックを受けるかもしれないが、数学者もボルヘス同様、ストーリーテラーなのだ。その物語の登場人物は数であり、図形であり、それらの登場人物を巡って数学者が作り出す物語が証明なのだ。わたしたちはこれらの物語に対する自分の感情的な反応に基づいて選択を行い、どれが語るに足る物語なのかを判断する。
数学を物語をつくることになぞらえるのが新鮮。数式にあらわれる美しさみたいなものが感情的な反応だと理解した。著者はこうした創造性と自由意志や意識がつながっていると見ている。
著者の結論は明解。意識がない限り、機械は人間のような創造性をもつことはなく、優秀なツールにとどまる。穏当な着地だが、創造性を意識から定義しなおしているようにも見える。
これは人がAI作品の評価を下げる現象と関連していそう。作品はまったく変わっていないのに、AI作と知るとなぜ評価を下げるのか。作品それ自体の評価というより、意識とつながることに価値を感じているのかもしれない。だとしたら、意識なき創造性は定義上ありえない。なにかを生み出しても人間にはその価値がわからないから。でも本当にそうなんだろうか。