将棋ノンフィクションを読む05――『羽生 21世紀の将棋』、『藤井聡太論 将棋の未来』

順位戦が佳境を迎えている。藤井竜王はあと1勝でA級に昇級となる。順調に勝ち上がれば、最年少名人の可能性も残していて目が離せない。

最終局を前に、A級を29期守った羽生善治九段の降級が決まった。去年もあやうくというところだったので、いつかそういう日がきてしまうと思っていたが、まだまだそんなことはないと信じたい気もしていた。自分が生まれてからずっとそうだったから。

 

保坂和志羽生 21世紀の将棋』(朝日出版社)を読んだ。1997年に芥川賞作家が書いた羽生論で、あまり目にすることのないタイプの本だった。独自のインタビューなどはなく、公開されている雑誌の記事や棋譜から羽生の将棋観にせまる。

羽生 21世紀の将棋

羽生善治以前、将棋についての語り方は、次の2つしかなかったと著者はみている。定跡研究や「次の一手」のような技術論と将棋を人生にたとえる人生論。羽生の将棋観はそのなかではとらえきれないという。この本はこれまで読んできた本とはひと味違い、将棋を棋士の物語としてとらえていない。

結論の先取りのようになるが、まず、現状、羽生善治のいきついた(ないし、目指している)将棋観を要約すると次のようになる。

人は将棋を指しているのではなくて将棋に指さされている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできたものが勝つはずだ (p.13)

この文章に対するリアクションは、人によって分かれるかもしれない。羽生以降しか知らない自分には違和感がない。棋士がインタビューでいう「自然に指す」とはこのことだろう。

 

棋士の個性をあらわす言葉として「棋風」がある。この人は攻め将棋だとか、受け将棋だとか。当時、攻め将棋でトップにいたのは谷川浩司九段だ。前進流、光速流など、駒を前に進めて一気に寄せるという切れ味鋭い攻めを特徴としていた。

 

対して羽生には○○流という定着した呼び方がない。つねにその局面の最善手を追求する。それは将棋の法則に従うことであり、自分のスタイルとは無関係に見つけ出されるものだ。

羽生は、棋風・個性・スタイルとは可能性を狭めるものだと考えている。(p.34)

 

では最善手とはなにか?ここでいう「最善手」は、すべてを調べたうえで最善の手という意味ではない。最終盤でない限りすべてを読み切ることはできない。なので、時間内でどう考えて手を選ぶかという方針の話になる。著者は、羽生がもたらした「将棋観の逆転」をここに見ている。

  1. 〈最善手〉とは棋士個人の産物でなく、一局の将棋の持つ法則である。
  2. "最善"の基準は結果からでなく、そこにいたる指し手が決める。

羽生は目の前の盤上にある局面を、そこから考えるものとも、終局という固定した状態から逆算することのできるものとも捉えていない。一局の将棋とは流れを持つものであり、指し手を判断する基準は収束の姿なのではなく、それまでの指し手の方にある。(p.63)

「いままで指した手が最も生きる手」とも書いていて、手の流れを重視していることが読み取れる。

現在の視点からいえば、ここにAIとの違いを見出すことができるだろう。AIは手の流れを意識しない。現局面だけを判断材料として、それまでの履歴は考慮にいれない。AIはゼロベースで考えるため、「手の流れ」というしばりからも自由である。

 

本書にも「コンピュータ観」という章があるがかなり古くなっていて、この25年の発展がよくわかる。ソフトが学習するモデルは想定されておらず、状況に応じた命令を入力する方式で考えられている。

棋士の思考の中で言語化されたものだけをソフトに入れていたため、まだ言語化されてない部分で人間が優位であると考えられていた。いまはAIが強いことは前提となり、示される手の意味を棋士が考えるという構図だ。当時はまだ全然棋士の方が強いが、羽生は負ける日がくると言っているのも興味深い。

 

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AIの実力が棋士を凌駕するようになった歴史的な変革期にある将棋界。そこにあらわれた藤井聡太の強さにせまるのは、谷川浩司九段の書いた『藤井聡太論 将棋の未来』(講談社+α新書)。2021年5月の出版なので、藤井二冠時代。

藤井聡太論 将棋の未来 (講談社+α新書)

まず現役の棋士が、別の現役の棋士についての論を出版することに驚いた。かつてそんなことがあっただろうか。これからも対局する相手だし。それだけ将棋ブームなのかなと思う。読んでみると意外に自伝的な話も多く、そちらもおもしろい。

 

2020年、藤井聡太が渡辺棋聖に挑戦した初のタイトル戦について書いているところに棋風の話がでてくる。

渡辺さんは藤井将棋について「谷川さんと羽生さんの両方を持っているような感じを受けた」と語っていた。

第一局が終盤のスピード勝負で、藤井さんの指し手が突然ギアを変えて一直線の寄せに持ち込んだ。それが「光速の寄せ」と呼ばれた私の勝ち方を連想させるものだったのだと思う。

第二局は優劣がはっきりしない中盤が続く中で勝敗を分ける妙手を放たれた。その一着が羽生さんの指し回しをイメージさせたのだろう。

第一局のような勝ち方をする棋士はいる。第二局のような勝ち方をする棋士もいる。けれども、両方を持ち合わせていることが、渡辺さんとしては心底驚きだった。(p.53)

まずわかるのは、谷川と羽生の指し方を対立するものとしてとらえる見方が共有されているということ。「光速の寄せ」というフレーズがある谷川の棋風に対して、羽生の描写はぼんやりしている。

 

そして、藤井はその両方をもっている。おそらくその対局での「最善」を選んだ結果、そのように見えたということだと思う。それだけ棋風という考えが根付いている。

 

藤井はすでに多くの記録をつくっているが、インタビューでは「記録を意識しない」と答え、「強くなること」を目指していると言う。勝つことよりも強くなることを目指す。その姿勢は、事前の対局者研究に重きを置かないことにも表れている。相手によって作戦をほとんど変えず、後手番なら2手目△8四歩とつく。

序盤戦で相手の苦手の戦法を選ぶことは考えず、相手の弱点を突いて勝つというスタイルではない。その意味では相手のミスを期待しない指し方とも言える。それは棋風というよりも「相手と戦っているか、将棋と戦っているか」ということだ。(p.91)

将棋の真理へ向かう羽生に共通する姿勢が見てとれる。

 

最善手をめぐる状況は将棋ソフトの進化によって大きく変わった。いまや将棋中継では、形勢判断や次の候補手が示されていることの方が多い。対局者以外は「最善手」を知っているという奇妙な状況になっている。窮屈そうにも思える。

藤井の将棋ソフトに対するコメントは、その逆をいっている。

「序盤で定跡とされていた指し方以外にもいろいろあるとわかってきて、むしろ自由度が高まっていると感じています」

「ソフトを使っていると、自分が気づかなかった手であったり、判断を示されることもあるので。自分にとっては、そういう将棋の新しい可能性を広げてくれるものなのかなというふうには思っています」(p.170)

将棋ソフトの進化は、自由度を高めて可能性を広げるものとして考えている。将棋というゲームの途方もない広さ、奥深さを知っているからこそ出てくる言葉だと思う。

 

 

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