だれもが知る棋士、羽生善治の世代には何人もの強豪棋士がいる。いわゆる羽生世代はなぜこんなにも強いのだろう?大川慎太郎『証言 羽生世代』(講談社現代新書)はこの問いの答えを追い求め、棋士たちにインタビューした記録である。
羽生善治、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、藤井猛、丸山忠久。1969~1971年の間に生まれ、のちにタイトルホルダーとなったこの6名を本書では羽生世代と呼んでいる。
彼らがタイトルの座についていたのは、1989年~2017年のあいだ(あくまでいまのところ)*1。この期間に212回のタイトル戦が行われたが、そのうちの136回を羽生世代が獲得している。他にもたくさんの棋士がいる中で、3回に2回というものすごい記録だ。
あらかじめ書いておくが、羽生世代がきわだって強い理由についてなにか実証的なデータがでてくるわけではない。あくまでも各棋士がどう考えるかという話ではある。それでもこの本がおもしろいのは、エピソードや語り口を通じて、羽生世代はもちろんのこと、それを語る棋士たちの人生が見えてくるところだ。
語るのは総勢16名。羽生世代を中心に上と下の世代にも話を聞いている。それゆえ視点もさまざまで、立体的にとらえることができる。 目次はこんな感じ。
- 第1章 羽生世代はなぜ「強かった」のか――突き上げを受けた棋士の視点
- 第2章 同じ世代に括られることの葛藤――同時代に生を受けた棋士の視点
- 第3章 いかにして下克上を果たすか――世代交代に挑んた棋士の視点
- 第4章 羽生世代の「これから」――一時代を築いた棋士の視点
上の世代は羽生世代に追われる立場になり、その驚きと危機感を語った。また、羽生と同世代で、彼らほどの成績をあげられず劣等感を抱えた棋士もいる。下の世代にとってはタイトル戦の壁として立ちはだかった。最後には羽生世代の胸中も記されている。
正直に言うと、なぜ2020年に羽生世代の話?という疑問はあった。だが読みはじめるとそのような疑問は解消され、すごくいいタイミングの取材だと思った。上に書いたように、タイトル獲得という点で見れば羽生世代のピークは過ぎている。ある程度の時間的な距離ができた分、棋士も語りやすくなったのではないかと著者も書いている。まさにという感じで、笑える話からグッとくる話まで個性あふれるインタビューとなっている。
また下の世代が台頭してきたことで、羽生世代の特徴がより明確になったというもあると思う。たとえば序盤の時間の使い方が何度か言及されている。以前、将棋は終盤の勝負が重視され、序盤はどう指しても一局という雰囲気があったという(昔は雑談しながら指していたとか)。
羽生世代は序盤から時間を投入し、自分の頭で一から考えることを重視した。その成果はやがて定跡となっていった。いまでも時間いっぱい考えるため、終局近くで秒読みにならないことは珍しいという。
そして将棋ソフトの充実以降、序盤にかける時間がまた短くなった。定跡が整備されたこと、ソフトによって研究が進んだことで中盤の課題となる局面まですいすい進むことも多い。
羽生世代がいまでも強いのは、自分の頭で考え抜いてきたからというのが共通してありそうだ。ソフトを使った研究がさかんになって、リアルタイムで世代交代が起きているいま、ほかの分野にも敷衍できそうな貴重な証言だと思う。
同じ著者の本として合わせて読みたいのが、『不屈の棋士』(講談社現代新書)だ。この本は将棋ソフトをテーマにしたインタビュー集。ちょうど「羽生世代」を「将棋ソフト」に置き換えた感じで、それぞれの棋士の個性や考えが見えてくるところがおもしろい。
こちらも取材のタイミングが重要なので確認しておくと、2015年から2016年にかけて。電王戦・叡王戦で棋士とソフトが対局をしていたころだ。将棋ソフトがプロ棋士に勝利するようになり、棋士の存在意義が問われるというような強い危機感がたちこめている。いまほど気軽にソフトについて言及できるような空気ではなく、将棋ソフトの隆盛以降かつ藤井聡太デビュー以前にあった独特な時代の雰囲気を残しているという意味で、すごく貴重な本だと思う。
11名の棋士へのインタビューがおさめられているが、将棋ソフトとの向かい合い方は人によってまったく異なる。ソフトを使った研究のみに専念する棋士から全く使わない棋士までグラデーションがある。こちらも目次から抜粋してみよう。
当時読んだときも、いま読み返しても羽生のこの言葉が印象的だった。
――棋士の存在価値の一つに、将棋の強さは間違いなくあったと思います。もし将来、ソフトに完全に実力を上回られたら、棋士の存在価値はどうなりますか?
羽生 ソフト同士が対戦するフラッドゲート*2の棋譜をそれこそ毎日、何十万人が見るようになったら、棋士という職業はなくなるでしょう。人間が指している将棋よりもソフト同士の方がずっとおもしろいということですから。いや、本当にそう思います。まあ、希望としてはなかなかそうはならないんじゃないかと思っていますが。
棋士の存在価値に「おもしろさ」があると言っている。ソフトの方が強くなったとしても、人間の将棋のおもしろさは残り続けるのではないか、という予想だ。現在ソフトの将棋をどれだけの人が見ているかはよくわからないが、人間の将棋はまだ多くの人に見られている。
棋士の存在価値は将棋のおもしろさにある。これはソフトが強くなったからこそ分かったことかもしれない。もちろん将棋の強さが前提ではあるのだけれど、棋士の価値を観客との関係のなかでとらえている。実際、藤井聡太のデビューによって観客の関心はいっそう高まり、棋士の存在価値という問い自体をあまり聞かなくなったように思う。
ではなぜ人間同士の方がおもしろいのかというところが気になってくるわけだが、よくわからない。手の一貫性、物語、共感といったことが関係していそう。そもそも自分は将棋の強さの内実を理解できていないが、それでもおもしろく見ているということをうまく言語化できていない(なので本の中に答えを探し、文章を書いている節がある)。ソフト同士の対局にしても、開発者の物語としてみると急にとっつきやすくなる。
ほかの分野に目を向けてみると、プログラムが生成した音楽や絵画も話題になっている。
これも似たような問題だと思っていて、観客がどう判断するかが大きな意味をもつはず。ただ、将棋には明確な勝敗があるという点でこれらの芸術とは違う。スポーツに近い、というかそのものかもしれない。将棋において強いこととおもしろいことはどう違うのか、まだまだ考えたい。
*2:コンピュータ将棋連続対局場所 (floodgate)http://wdoor.c.u-tokyo.ac.jp/shogi/floodgate.html