読書会のことが気になってきたら、まずは向井和美『読書会という幸福』(岩波新書)がいいと思う。翻訳者であり、中高一貫校の図書館司書でもある著者は、海外文学の古典を読む会に参加して29年になる(当時)。また学校の図書館では、学生たちとともに読書会を運営している。
読書会とはどのようなものか、という入門的な話からはじまり、経験に裏打ちされた楽しむためのヒントがつまっている。毎月参加している"ホーム"の読書会のことはもちろん、他の会に参加してみたという「潜入ルポ」もあって、読書会のさまざまなスタイルを知ることできる。
読書会の効用として、自分ひとりでは読み通せない本を読める、日常生活と違う話ができる、感想や意見が言えるようになる、人の意見が聞ける、といったことがあげられている。そうした場をうまくつくるための作法も書いてある。これから参加してみたいという人も、すでに主催している人も、何かしら得られるものがあるはずだ。
本の後半では、読書会参加者の反応や感想を交えながら海外文学を紹介していて、読みたい本が増える。巻末に付された、35年にわたる読書会の課題本リストは圧巻。
訳・向井和美のアン・ウォームズリー『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』(紀伊國屋書店)は、ちょっと特殊な読書会の本。雑誌記者をしていた著者は、ある刑務所で開かれる受刑者たちの読書会にボランティアとして参加する。月に一度、刑務所を訪れ、課題の本について意見交換をした一年の記録。
読書会が受刑者の更生に役立つことを示す、というタイプの本ではない。そうしたケースはあるかもしれないが、本書の記述は、読書会で何が起きているか、あるいは著者本人の心情の動きに集中している。というのも、著者はかつて強盗の被害にあい、その恐怖心を抱えたままボランティアへの参加を決めるという物語でもあるからだ。
読書会のスタイルはオーソドックスなもので、運営側が課題の本を1冊決め、各自読んできたうえで集まって話をする。登場人物の行動についてどう思うか。共感できるところはあったか。境遇の差についてどう考えるか。日常にはそうした話をじっくりする機会はそうそうないが、1冊の本を介することで意見を交わすことができる。
本への意見を言うことは自己開示の要素を含んでいて、人の意見を聞いて自分の偏見に気づくことがある(「そんなことを言う人だと思ってなかった」)。意見が一致することもあれば、違うときもあり、言われてみれば確かにとなるときもあれば、違う意見のままのときもある。そうであったとしても、言葉を伝えて、受け取り、また伝えることができるはずだという実感は、大きな意味をもっていると思う。
今度は時代をさかのぼって、日本の江戸時代の話。前田勉『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー)は、会読という学習方法についての研究書である。
江戸後期、儒学の学習方法には3つの段階があった。生徒がテキストを読み上げて暗誦していく「素読」、先生が注解しながら生徒に教える「講釈」、そして「会読」。
会読は3つの原理からなるという。
- 相互コミュニケーション性:参加者による討論を奨励する。
- 対等性:討論において、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等に行う。
- 結社性:読書を目的とし、規則を決め、複数の人が自発的に集会する。
先生と生徒、あるいは身分のような、上限関係から離れて討論できる環境は特異なもので、日常にはない、創造的な読みを出し合う場所になっていた。
討論で重要な発言をしたからといって、身分や出世がどうにかなるわけでもないが、それでも人は自由な学びや「遊び」を求めて集まった。ここにも日常とは違う空間としての魅力が示されている。
丸谷才一・木村尚三郎・山崎正和『三人で本を読む』(文藝春秋)は、のぞき見したい読書会の見本。だれかが1つのテーマで3冊の本を選び、3人がすべてを読んできてあれこれ話す。会は月に一度で、毎回3時間以上も白熱し、その12回分を本にしたというタフな企画。
初回、山崎正和による選書は有泉貞夫『星亨』、藤森照信『明治の東京計画』、宮田親平『科学者の自由な楽園』の3冊で、テーマは「草創期の無茶苦茶精神」。もうこの時点でわくわくしてくる。政治家、都市計画、科学という離れた点を、草創期というくくりで星座のようにつなげてしまう。
3人のバックグラウンドは文学、歴史、思想とそれぞれで、本のいろんな側面を浮かび上がらせる。だれかが批判をしたら、別のだれかが擁護してみたりと、意見が割れる場面も多数あって盛り上がる。丸谷才一がいちいち文章作法にツッコミをいれているのもいい。単なるクロスレビューではなく、座談会という形式だからこそできることがあって、それは演劇的といえる。
こうした企画は、いまどこかで読めるだろうか。クローズドな場所で、関係がつくれている人同士じゃないと難しいのかもしれない。一方で1985年の本ということもあってか、現在では許容できない発言もあり、そのあたりは閉鎖性の負の側面としてうつる。
本の一部を読まずに語り合うというのは、たとえばミステリであれば想像しやすい。とりわけ「読者への挑戦」があるような作品であれば、問題編だけを読んできて、それぞれの推理を披露しあうという楽しみ方ができる。さらにその場で解決編を読んで、感想戦をするもいい。
この本では、読まない部分を小説のほぼ全編に広げている。最初に冒頭1ページと結末の1ページだけを読んで語り始める。4人がもっている断片的な情報も手掛かりにくわえて、物語の想像をふくらませる。そして、少しずつ途中の情報を解禁しながら想像とともに物語を進んでいく。
通常の読書会よりも細かい読みを見ることができる、といえるかもしれない。長編1本まるごとの大きな感想ではなくて、その1ページからできる限り多くのものを読み取ろうとしているからだ。そうした細部の読みと間を埋める想像が、創造に転化していくさまがおもしろい。