宮西建礼の短編集『銀河風帆走』(東京創元社)を読んだ。とりわけ印象的だった冒頭の短編「もしもぼくらが生まれていたら」について書いていたら長くなってしまった。
※ネタバレしているので注意
高校生になった浅枝トオル、青原トモカ、磯本タクヤの3人は「衛星構想コンテスト」のアイデアを考えていた。このコンテストはオリジナルの人工衛星や宇宙機ミッションを考案し、その完成度を競い合うというもの。3人ともそれぞれにアイデアをもっているが、グループとして意見をまとめるのに苦心している。
トオルとタクヤは土星以遠の宇宙探査機について検討を重ねる。その一方、トモカは小惑星を動かすための宇宙機の構想を考えていた。というのも、数週間前に発見された小惑星が、その軌道予測から地球に落下する可能性があると報じられたからだ。
観測データとシミュレーションの結果は、地球に衝突する確率が日に日に高まっていることを示しており、具体的な落下場所も絞られてくる。日本はかなり危険な地域と予測され、各国・各機関が対応を検討し始める。そうした状況のもと、トオルの一人称視点で物語は進む。
作中には科学的な議論をする場面が多くあり、そこがひとつの読みどころになっている。たとえば、土星以遠の探査機について、太陽から離れた場所での電力マネジメントが問題になる。わずかな太陽光、無重力、温度、打ち上げコストなど、地上とは違う条件をいかにカバーするかが具体的に議論される。そして、小惑星の軌道を変えるにはどうしたらいいのかという問題にも取り組むことになる。
もしかすると序盤の議論に違和感を覚えるかもしれない。論理がおかしいといったことではなく、ある技術がなぜか検討されないからだ。
物語のちょうど中間地点で、その理由が明らかになる。ここに描かれる世界は原子力の利用が認められていない。第二次世界大戦は原子爆弾の完成前に終結し、その後の条約で核の禁止が約束されているからだ。そのように改変された歴史の延長線上にこの物語がある。
そのため、原子力発電によって探査機のエネルギーを確保しようという話にはならないし、核爆弾を小惑星にぶつけることもまずは考えない。しかしこの緊急事態と天秤にかけたときに、核の開発も仕方ないのではという議論がでてくる。
日本の壊滅か、核の開発か。その二択を回避しなければならない。小惑星の軌道を変更するための別のアイデアを考えるという方針で3人は力を合わせ、ひとつの案をつくりあげる。そのアイデアでコンテストに応募するつもりだったが、先にまったく同じ案をアメリカの大学院生が発表し、それが国際的なプロジェクトに採用されることになる。そこで解決策となる技術が個人的になじみのあるもので、ちょっとうれしかった。
ラストではこの物語の舞台が明らかになり、タイトルの意味がさらに重みをもってせまってくる。
しかし。このタイトルには、ひっかかるところがないではない。もしも「ぼくら」が生まれていなかったら、どうなっていたのだろう?「ぼくら」はアイデアを思いついたが、結果的には先を越されていた。いずれにしても、最悪の事態は回避されたのではないか。
小惑星の危機に関する因果関係としては、このタイトルは合致していない。このタイトルであれば「ぼくら」が大活躍するプロットのほうが自然に思える。しかしそうではない。それはなぜなのかを考えたくなる。
タイトルと冒頭を読んだ時点で自分が思い浮かべたのは、こんな単純なプロットだった。現実世界をベースにして、主人公たちの活躍によって世界が救われるというもの。
実際には、ここから少なくとも2つの重要なひねりが加えられている。ひとつは、歴史改変した世界であること。もうひとつは、(少なくとも作中の時間では)主人公たちは世界を救わないこと。
なぜあえて他の人に先を越されるプロットなのか。個人的な解釈では、社会がまともに機能しているものとして描かれているからだ。あるいは夢想的とすら言えるかもしれない。そうした世界では、高校生が思いつくことは別の誰かがちゃんと考えている。高校生が世界の命運を背負う必要はないし、異世界で無双しなくてもいい。
これは現実の社会が機能不全を起こしていることと、高校生の個人技にたくしがちな想像力への批判として読める。つまり、このタイトルは一見回収されたようでいて、部分的には裏切られているといった意図的なミスリードがあると思う。効果は抜群。
彼らの経験はひとつの敗北といえるかもしれない。かといって、自分たちには何もできない、といった無力感はまったくない。むしろ彼らは重要なものを手にしたのだと思う。科学という言語をつかって身近な人、遠く離れた人とつながる経験を。
このような科学の体感は、続く2作「されど星は流れる」と「冬にあらがう」にも通じていて、とても良いなと思った。