〈沢木耕太郎ノンフィクション〉シリーズのラストは、観戦記を7作収録。うち1作は長編となっている。F1、陸上、ボクシング、スキー、オリンピックと競技はさまざまだが、著者ならではの角度からストーリーが紡がれていて、競技に詳しくなくても読むことができる。あえてスポーツと巻を分けている理由など含めて、読み比べてみるとおもしろそう。読んでみての私見では、観戦記は著者自身の物語としての側面が強い。
- 「雨 F1グランプリ」
- 「カウントダウン 世界陸上競技選手権」
- 「夢見た空 夏季オリンピック」
- 「象が飛んだ 世界ヘヴィー級タイトルマッチ」
- 「落下と逸脱 ワールドカップ・スキー」
- 「冬のサーカス 冬季オリンピック」
- 「杯〈カップ〉 ワールドカップ・サッカー」
「雨 F1グランプリ」
初出:「スポーツニッポン」1976年10月25日
思いもかけないことが起こってしまった。自分が仮想の世界で構築していたレースが根底から崩れてしまったのだ。
F1グランプリが日本で初めて開催され、レース翌日の新聞にのった観戦記。紙面におさまらなかったロングバージョンとなっている。このレースはそのシーズンの最終戦で、チャンピオン争いのトップにいたフェラーリのニキ・ラウダに注目していた。ラウダはその年の前半からチャンピオンへの道を独走していたが、ドイツ・グランプリの事故で重傷を負い戦線離脱する。その間、マクラーレンのジェームス・ハントが追い上げてきた。しかしラウダは復帰し、決着は僅差のままこの最終戦にもちこまれた。雨が降るなかスタートしたレースは思わぬ結末を迎える。
新聞に書くということはすぐに書くということで、事前に予定の原稿みたいなものをつくっていたらしい。結果、そこから大きくはずれることになり、その差分を意識した観戦記になっている。短い文章のなかにレースの背景情報をコンパクトにいれ、本番はあっさりと終わる。死の淵から生還したニキ・ラウダがこの最終戦でなにを考えていたのか。ふとわかったような瞬間があり、またわからなくなってしまう。
「カウントダウン 世界陸上競技選手権」
初出:「ナンバー」1983年10月5日号
第1回世界陸上競技選手権がフィンランドのヘルシンキで開かれた。1週間ほどつづく大会を現地で観戦し、日ごとに日本へ送った手紙という形式で書かれている。スタジアムではさまざまな競技が同時に開催され、予選から決勝へ進んでいく。選手たちの情報をあまり予習せずに見に行って、どれだけ楽しめるかという試みでもある。
同時にたくさんのことが起きているなかで、どれを見るべきか悩ましい。これはと思うものを見つけて、選び取っていく必要がある。テレビで観戦するのとは違って、競技のあいだの「重要じゃないところ」も見ることになり、大事なところを見落とす。それが陸上競技を現地で観戦することの特権であり、難しさでもある。この文章もテレビ的な名シーン集から遠く離れている。手紙という形式もあいまって、紀行文のような趣きがある。
「夢見た空 夏季オリンピック」
初出:「ナンバー オリンピック特別増刊号」1984年9月
ロサンゼルス五輪の取材を日記形式で書いていく。ロス五輪を見に行くことに決めてから、まずモスクワへ向かい、開会式の日には東ベルリンにいた。
行ってどうしようというわけではなかった。ボイコットしたソ連や東ドイツの選手や体育関係者に会って、なにごとかを取材してみたところで、公式的な答え以上のものは返ってこないだろう。そうではなく、モスクワや東ベルリンの街をただぶらつくことで、ボイコットした国であるソ連と東ドイツという国の風に、ほんの少しでも触れてみたかったのだ。風に吹かれたからといって何がわかるということもないだろうが、ロサンゼルスでも彼らの不在をどこかで意識していたかった。逆にいえば、ロサンゼルスの大会は、ボイコットしたソ連、東欧の選手の不在を意識しつづけることで十全なものになるような気がしたのだ。
東ベルリン、西ベルリン、それからニューヨークへと動き、各地のテレビでオリンピックを見る。そして大会6日目にしてロサンゼルスへたどり着き、現地取材をはじめる。
現地での観戦記は後半にあってそれも読ませるが、上に引用したように前半のロサンゼルスにつくまでのプランが抜群におもしろい。「カウントダウン」と続けて読むことでいっそう深まる。ヘルシンキで活躍したソ連や東欧の選手たちは、そのときすでに五輪への秒読みを進めているはずだったが、ロスではそれを見ることができない。あるいは、ある国においてテレビはどのようにオリンピックを映すか。スポーツの世界に閉じずにオリンピックをとらえている。
「象が飛んだ 世界ヘヴィー級タイトルマッチ」
初出:「ナンバー」1991年5月20日号
アメリカ、アトランティック・シティでの世界ヘヴィー級タイトルマッチ。28才のチャンピオンのイヴェンダー・ホリフィールドに対して、カムバックした42才のジョージ・フォアマンが挑戦する。前評判は圧倒的にホリフィールドで、まともな試合になることすら危ぶまれていた。
どの記事もフォアマンの体重と年齢に軽い揶揄の調子を含んでいないものはありません。中には露骨に「ミス・マッチ」と断じ、フォアマンがホリフィールドとまともに戦えたら、象だって空を飛ぶだろう、と書いているものもありました。
一度ボクシングを離れたフォアマンはなぜカムバックしたのか。そしてどんな戦いを見せてくれるのか。
フォアマンのセコンドへの取材でカムバックの理由を問う。「もし勝ったら、フォアマンは何が得られるのでしょう」。「ヘヴィー級のチャンピオンの座以外に、人は何が欲しいと言うんだい?」という答えに著者は虚を突かれる。試合前にフォアマンは楽しもうとしていた。ブランクのあいだに手にした「精神性」に注目する。試合は大方の予想を裏切り、最終ラウンドまで善戦が続いた。事前の取材によって、試合だけを観るのではわからない物語の線がうまく引かれている。
「落下と逸脱 ワールドカップ・スキー」
初出:「スキーヤー」第1号 1992年
オーストリアのキッツビューエルで開催された滑降の大会を見に行く。ダウンヒルともよばれるその種目は、斜面のコースを滑り降りるタイムを競う。スキーに関心をもっていなかったという著者は、現地に集まった選手やスタッフを取材するなかで、この競技の本質はなんだろうかという問いが浮かび上がってくる。勝敗や記録といったドラマ的な関心はうすめ。
スキーの観戦もどこから見るのかという問題がある。現地ではコースの全体を見渡すことはできない。多くの種目が同時に見える陸上競技とは対照的といえるが、どれかを選ばなくてはいけないという意味では同じだ。考えた末、いちばん長く選手を見れるからという理由で、大会当日の観戦場所にスタート地点を選ぶ。しかし記録がどうなったかはわからない。選手が斜面を滑って遠ざかっていく姿だけを見続け、滑ることと落ちることの狭間に本質を感じとる。この取捨選択のしかたと、それで物語をつくりきってしまうことにうなる。
「冬のサーカス 冬季オリンピック」
初出:「スポーツニッポン」1998年2月8日~2月23日号
1998年の長野オリンピック期間中、開会式から最終日までの16日間にわたって新聞に連載された観戦記。その日に見て考えたことを、その日に書いて見出しをつける。これまた複数の競技がおこなわれるなかで、どこを見に行くかということになる。滑降、アイスホッケー、スピードスケート、ジャンプ、クロスカントリー、フィギュアスケートなど日本人選手を中心に。
16日分その日ごとに別の競技や選手を描いている。ひとつの軸でつらぬく作風という印象が強いので、めずらしいタイプの文かもしれない。先に構想をつくれないので当然なのだけど。しかしそれでも途中から一体感のようなものがでてくるから不思議。12日目の見出しは「私たちはサーカスを見るために来たのだろうか?」とある。ショートトラックやジャンプといった競技において、運やトラブルが結果を大きく左右することがあり、それがスポーツと言えるのだろうかという疑問だ。冬の競技にはとりわけその要素が多いという。そうしたスポーツとしての不完全さを抱えたなかに、不意にあらわれる完璧な瞬間を追いもとめる。
「杯〈カップ〉 ワールドカップ・サッカー」
2002年の日韓共催となったワールドカップを日記スタイルで描く長編。韓国にもアパートを借りて拠点とし、一か月半のあいだ日本と韓国を飛び回りながら試合を観ていく。日本戦がある日はそのスタジアムへ、そうでない日は気になるカードのところへ。毎日のように飛行機に乗り、ぎりぎりのスケジュールで移動していく。
読んでいて、こんなことを考えながら試合を観れたらおもしろいだろうなと思った。しかも密度の高いスケジュールで連日の現地観戦。試合をひとつの点として観るのではなく、つながっている線としてとらえて物語をつくっている。そこに著者の見方が表れていて、日本と韓国の両方からこのワールドカップを観るというコンセプトをやりとげている。結果、このストーリーの終着点は1年後の日韓の親善試合にまで延長され、トルシエ以降の日本代表の変化や、韓国にとって日韓戦はもはや特別なものではなくなったことを見てとる。
・文庫化情報
「冬のサーカス」
「杯〈カップ〉」