本を2冊ならべて~『人文的、あまりに人文的』、『読書は格闘技』

ブログを始めてから4年が経った。月一のペースとはいえ、自分でも意外なほど続いている。なにが良かったのだろうかと考えてみると、"しばり"をいれたことだと思う。
 
連想をきっかけに、本をつなぐように書くこと。これが思いのほか楽しい。なんとなくの連想を言葉にするのはそれなりに大変だけれども、書いているうちに理解がすすんだり、最初に思っていたのとは違うほうへと展開されることもよくある。
 
で、ブログをはじめるときのきっかけになった連載が2つある。いまではどちらも本になっているので、今回はその2冊について書いてみたい。
 

まずは山本貴光吉川浩満人文的、あまりに人文的 古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(本の雑誌社。「ゲンロンβ」で連載されていた対談形式のブックガイド(2016.5~2018.7)。全20回で、毎回2冊の本を取り上げている。

人文的、あまりに人文的

ふつう書評といえば、1人が1冊の本について書いたものをイメージすると思う。この本では2人で2冊を語りあう。たとえばこんな風に。

山本 ときどき思うんだけどさ。

吉川 聞こうか。

山本 本って、結構デザインで覚えてたりしない?

吉川 あるある。

山本 例えば、『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)といったら、あの大きくて大理石みたいなカヴァーが思い浮かぶとか。

吉川 最初に出たやつだね。『ウィトゲンシュタイン全集』(大修館書店)といったら、赤と緑を基調としたあの箱。

山本 『言葉と物』(新潮社)は箱もさることながら、布張りのざらっとした手触りとか。

吉川 加えて紙面のタイポグラフィもデザインだ。

山本 いまはなき思想誌の『エピステーメー』(朝日出版社)なんて、コーナーごとに組み方がちがったりしてね。はじめて見たとき誇張抜きに魂消た。

吉川 懐かしい。『GS』(冬樹社)もすごかったよ。一冊一冊がモノの塊として存在感があった。

山本 最近こういうモノとしての本についてどう考えたらいいのかなと思うのよ。 (p212-213)

 ――という導入からはじまる本のデザインの話。すでにもう興味をそそられる。かけ合いで進んでいくから調子がいいというか、隣で聞いている感じが心地よい。

 
 
対談ならではの良さだなぁと思って読みかえしていると、歴史の論じ方をテーマにした回が目に留まる。 取り上げる本は、加藤陽子それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。

吉川 この本は、加藤さんが中高生たちを聞き手として行った講義をもとにつくられたものです。

山本 そう、しかも講義といっても、先生が一方的に話すのではないのがいいよね。歴史にかんする本や講義は、ともすると「こういうことがあった」という細かな史実や仮説の列挙になる。もちろん専門書はそれでよいし、必要な手続きなんだけど、専門的ならぬ読者や聞き手にとっては無味乾燥なものになりがち。

吉川 重要なのは、むしろそうした細部を読み解いたり、束ねあげたり、文脈をつくる視点。その点どうかというと、加藤さんは、講義を通じて絶えず生徒たちに問いを投げかけている。

山本 問いがあれば、好奇心も動き出すし、歴史を眺める視点も得られる。 (p47-48)

この本を読んでいて思うところもこれに似ている。「先生が一方的に話す」感じではなくて、おもしろく会話がされているから、自分も読んでみようかなってなる。
 
毎回2冊を取り上げると書いたけど、実際にはもっと多い。2冊をきっかけにして様々な関連書への言及があって、回をまたいだリンクもある。
 
先の引用箇所からのつながりでいえば、「好奇心」と「問い」をテーマにした回もある。知りたいという気持ちはどこから生まれてくるのだろう?そこでは好奇心がはたらく条件として、「ある程度知っている」、「まだ知らないこともある」、「知識の空白を感じている状態」をあげている。そのうえで大切になるのが「問い」。
山本 (中略)著者がどういう動機に導かれて本を書いたのか、という観点から問題を共有したり共感できれば、俄然面白くなってくる。それに気づけば哲学書を読むのも楽しくなる。
吉川 プラトンとかアリストテレスとか、書かれた内容だけを取り出してみれば、わけがわからなかったりするんだけど、でも彼らがどんな問いに直面していたかという観点から見れば理解可能になって、独自の意味と価値が見えてくる。  (p30)
命題や作品がどんな問いに答えようとしたのかといった状況もふくめて、意味を考える「問答論理学」という考え方も紹介されていて気になる。
 
こんな風にしてつながりが見えてくると読みたくなるし、また読んだことがある本でも違った楽しみ方ができるはず。そんなこんなで読みたい本がどんどん増えて困った(困ってない)。
 
 
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もう1冊は瀧本哲史『読書は格闘技』(集英社。連載していたのが「小説すばる」(2014.1~2016.2)でちょっと意外だったのを覚えている。当時、成毛眞氏とのトークイベントで「いつもとは違う媒体で書く実験をしている」と話されていたっけか。

読書は格闘技 (集英社)

この本も毎回ひとつのテーマについて2冊の本を選ぶ。特徴的なのは、対立する主張を戦わせるように読んでいくところ。楽しむための読書とはまた別のものとして、本や著者と格闘するような読書観を提示している。

どういうことかというと、複数の本を批判的に読みくらべることのすすめ。ディベートのジャッジのような心構えで読むといってもいいだろうか。そして、それぞれのテーマで結論を出すというより、読者にも「参戦」を呼びかける。

 
「Round 0 イントロダクション」から面白い。取り上げる本はショウペンハウエル『読書について』と瀧本哲史『武器としての決断思考』。『読書について』は「読書は他人にものを考えてもらうこと」と主張し、読書への批判をしているのに対して、上記のような著者の考えをぶつける。
 
なかでも、格闘技としての読書では良書の定義が変わってくる、というところが目を引いた。
普通、「良書」というと、書いてあることが正しいものであり、正しい考え方であると思われる。しかしながら、書いてあることに賛成できなくても、それが批判に値するほど、一つの立場として主張、根拠が伴っていれば、それは「良書」と言える。 (p8)
 
格闘技としての読書では、書かれていることをそのまま受け入れるわけではない。批判的に検討していこう、という心構えでのぞむ。その場合には無難なことを書いている本より、主張が多少偏っていたとしても、読み手の中にはない強い立場をとっている本の方が学ぶところが多いというわけだ。
 

ではどんな格闘を見せてくれるのか。たとえばRound2のテーマは組織論。組織にとって重要な要素とはなにか。『ビジョナリー・カンパニー』は永続する企業に共通するものとして、そこで働く人よりも仕組みに注目する。
 
対して『君主論』は強いリーダーの重要性を語る。道徳的でないことへの批判も多い本だが、その上でなぜ古典としていまも読まれているの?と問い、書かれた文脈からとらえなおして、現代的な意味を探す。
本と格闘するときには、その本を最悪の形で理解して理解して批判するのではなく、一番良い意義を持つように善意に解釈した上で読むべきだと思う。  (p28)
一見すると批判的に読むこととは真逆に思えるかもしれないが、そうではない。その本の背景も読み込み、可能性を引き出したうえで戦わせることで、より議論を深めていくことができる。 

「読書は格闘技」の観点でみると、古典というのは良い相手かもしれない。なぜならさまざまな人による格闘の歴史がすでにあり、その経緯も含めて検討できるから。逆にいえば、そうした戦いを生き抜いてきた本こそ古典といえる。



あらためて読んでみると、テーマ選びの変化も気になった。全12回の前半はビジネス寄りの内容だったものが、しだいに変わっていく。 このあたりに「実験」があったのかもしれないなと思う。
 
連載の後半は著者が中学生にむけた講演をしていた時期のようで、その内容は、実質的に最後の著作となった『ミライの授業』として刊行された。こうした想定読者の変化が連載にも反映されたのかなと推察する。
 

 
ブログを続けてきて思ったのは、自分の関心も変化していくということ。逆に変わらないところもある。ある時期に自分が何を考えていたのかを記憶しておくのはけっこう難しく、書いておいてはじめて自覚できることもある。

というわけで、まだまだ続けていこう。

 

人文的、あまりに人文的

人文的、あまりに人文的

 

 

読書は格闘技 (集英社)

読書は格闘技 (集英社)