トム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』

19世紀にはテレビも飛行機もコンピュータも宇宙船もなかったし、抗生物質もクレジットカードも電子レンジもCDも携帯電話もなかった。

ところが、インターネットだけはあった。

どういうこと?と、冒頭からつかまれるトム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(訳・服部桂がハヤカワ文庫から復刊された。19世紀のヨーロッパで発明され、人々の生活を変えたテレグラフや電信とよばれる情報通信技術の歴史。そこに現代のインターネット的なつながりの起源を見出している。

 

ヴィクトリア朝時代のインターネット (ハヤカワ文庫NF)

電信以前、長距離の情報のやりとりといえば郵便だった。海外からの情報となると数週間は遅れてしまう。馬や鉄道や船のスピードで通信速度が決まっていて、手紙と人が同じ速さで動いていた時代。

 

そこにブレイクスルーを起こしたのが、即時に伝わる電気信号による情報伝達だった。電信の技術的な要素には大きく2つある。メッセージをどのように電気信号に変換するかという符号化と、電気信号を遠くまで送って検出する技術。その両方でブレイクスルーが起きたのがこの時期で、モールス信号というかたちで広まっていく。

 

これが考案された唯一の方式というわけではなくて、その途中にあらわれ消えていったアイデアもおもしろい。たとえば、腕木通信が一時期フランスで使われていた、とある。これは複雑な手旗信号のようなもので、望遠鏡で遠くからその装置の腕のかたちを見て、同じかたちをつくることでさらに先へと伝言ゲームをしていく。なんだかややこしそうだなと思うけど、馬が走るより速ければありということだ。

 

技術史では発明に注目が集まりがちだが、普及していく過程にも読みどころが多い。電信は画期的な発明だったが、すぐに社会に広がっていくわけではない。通信機器や海底ケーブルなどインフラに関わるものなので、ときには技術に詳しくない人の承認をもらったり、投資をうける必要がある。そこで重要なのは技術の是非以上に信用を勝ちとるためのコミュニケーションだったりして、そのあたりの苦心も描かれている。

 

電信への懐疑的な声もあるなかで、いくつかの事例が評判を高める。当時、電車で逃げる犯人を捕まえるにはあとから同じくらいの速さで追いかけていくしかなかったが、電信で行き先に連絡をとれば捕まえることができる。これは電信がもたらすインパクトの端的な事例といえる。というか、それ以前の捜査って難しすぎないかと思ったりした。

 

技術が普及していくと、最初は特別なときにだけ使われていたものが、より日常的なことにも使われ始める。儲け話があり、犯罪があり、ロマンスがあり、秘密のやりとりをするための暗号があった。電信はメッセージの長さが直接ネットワークの占有時間になるため、略語や言い換えの文化が発展していく。このあたりはインターネットでみたやつ!ってなる。

 

1870年代以降、電話の急速な普及によって電信の利用者は減少していく。電球も発明され電気の応用製品がどんどん世に出る一方で、電信コミュニティはすでに衰退しはじめている。こうした栄えた文化が衰退していく過程が読めるのも、ひと昔前の技術史ならでは。

 

 

タイトルからもわかるように、インターネット以後の視点から電信の歴史をたどっているのが本書の特徴で、現在をとらえなおすことができる。インターネットで見たことある現象に何度も出会い、古いものが新しいと思っていたものに似ているという驚きがある。

 

なぜインターネットが普及した現代で、インターネットではなく電信の歴史が書かれるのか。あるいはテクノロジーを比較してみることの意味はなにか。読んでいてそんなことを考えてみたくなった。

 

テクノロジーは人々の生活を決定的に変えてしまう。しかしその一方で、それでも人々は何かを繰り返している。たとえば、人は新しいつながりを求めている。あるいは、新しい技術にユートピア的な幻想をみてしまう。なにが新しくて、なにがそうではないのか。テクノロジーの固有性と人間の本性みたいなものがどちらも見えてくる。

 

 

 

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