編集者・津野海太郎の文章をあつめた『編集の提案』(編・宮田文久、黒鳥社)を読んだ。かなり前に書かれたものもふくめて、いまこそ読まれてほしいということで2022年に出た本。
「第1章 取材して、演出する」がとりわけ印象に残った。この章には「テープおこしの宇宙」「座談会は笑う」「初歩のインタビュー術」「雑誌はつくるほうがいい」という4つの文章があり、いずれも章題のとおり、人に話を聞きにいって記事をつくることについて書かれている。
つまり編集について書かれていて、そこに「演出する」という言葉をつかうところに著者の意図が感じられる。というのも、原稿を依頼して受け取るのではなく、人に話を聞いて自分で文章にするというタイプの編集を指していて、そこに編集の魅力があるという。以下は「テープおこしの宇宙」からの引用。
話しことばと書きことばのあいだの――その両方がかさなりあったり、ひしめきあったりしている空間に身をおくことが好きだ。いや、かさなったりひしめいたりなどと書くと、へんに充実した感じになってしまう。だから、つぎのようにいいなおしておく。話すことと書くこととのあいだには、けっして埋めることのできない隙間がある。私はその隙間に身をおいて仕事をすることが好きなのだ。(p.16)
かれのものでもあれば私のものでもあるようなことばの世界――だからこそ私は自分で文章を書くことよりも、他人が話したことばを文字化することのほうが好きなのである。
そして、そこまで書けば、かえってハッキリしてくる。たしかに私はインタビュー記事――とりわけ聞き書きをつくることが好きだ。それは私の演出欲や演技欲をひそかに満足させてくれる。しかし同時に、そこには、それよりもっと遠いところをねらう無意識の戦略がはたらいているような気がしないでもない。
かれのものであって私のものでもあるような声……?
いや、とことんのところをいうと、むしろ私は、かれのものでも私のものでもないような声がききたいのである。それには私ひとりで文章を書くよりも、他人の話を文章にまとめていくことのほうが役にたつ。話しことばと書きことばとのあいだの埋めることのできない隙間でこころみられる編集作業のうちから、ほんのかすかでもいい、かれと私とをふくみもる、しかも、かれや私をこえたものの声が聞こえてくればうれしいのだが――私だけではなく、スタッズ・ターケルも藤本和子も、やはりそのように考えて無名の生活人たちの話をあつめつづけているのではないだろうか。(pp.22-23)
「かれ」の話を聞いて、「私」が文章にまとめていく。聞いた話は編集が入った文章になる。そこでは話の順番を整理する、省略する、補足するといったことがおこなわれる。あるいは「座談会は笑う」でとくに注目している、(笑)のような言語外の表現を文章に取り入れる。
その文章には話し手と編集者の声がまざり、どちらのものでもあり、どちらでもないような声が生まれる。なぜそうした文章が良いのかといえば、個人的でありながらも他者に開かれているからだと思う。
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話しことばから書きことばへ。その逆もあるだろうかと考えていて、礒井純充『「まちライブラリー」の研究』(みすず書房)で読んだことを思い出した。
「まちライブラリー」とは、著者が提唱しただれでもはじめられる私設図書館のコンセプトで、全国で千か所以上に広がっている。この本ではそうした場づくりの事例について、都市論やコミュニティ論の考えをとりいれつつ考察している。
思い出したのは、まちライブラリーのイベントで参加者に本を持参してもらい、会の冒頭に自己紹介代わりに本を紹介したというところ。
この仕組みは意外と好評で、通常の自己紹介より話がしやすい、主婦や学生など仕事を持たない人でも話すことができる、お互いに考えていることや感性を共有しやすい、などフラットなつながりを作るうえで有用であるという声が多かった。(p.43)
自分も同じような経験があるのですごくわかる。そもそも自己紹介が苦手ということもあり、好きな本についてのほうが話しやすい。本を好きな人が集まっているという場合であればなおさら。犬の散歩をしている同士で出会ったみたいな話しやすさ、という感想も書かれていてなるほどと思った。
それに本の紹介は、自然と自己紹介になるところがある。本の選び方、紹介のしかたにはその人なりの個性があらわれてしまう。個人的には、本選びよりも紹介のしかたのほうが大事という印象。
似たようなこととして、好きな本のタイトルのリストを見せることが思い浮かぶが、これがどれほど自己紹介になっているかはけっこう難しい。わかる人にはわかるけど、タイトルだけだとほとんど手がかりがないことも多い。それでもある程度の長さのコメントがついていれば、なにかを感じ取ることができる。(そういうブログが読みたい)
なぜ本の紹介が自己紹介になってしまうのかといえば、そこに編集が入っているからということになると思う。書きことばから話しことばへと、テープおこしのちょうど逆のことをするみたいに。そこには本の著者の声だけではなく、紹介者の声がまざっている。