伊藤憲二『励起 仁科芳雄と日本の現代物理学』

ここのところずっと伊藤憲二『励起 仁科芳雄と日本の現代物理学』(みすず書房を読んでいた。2段組1000ページで、内容も重厚なノンフィクション。しっかり集中できる時間にしぼって読み進めていたら、2か月ほど経っていた。せっかくなのでメモを残しておきたい。

 

励起 上――仁科芳雄と日本の現代物理学 励起 下――仁科芳雄と日本の現代物理学

 

仁科芳雄がどのくらい知られているのかよくわからないが、自分としては、仁科は物理学者で、戦前から戦後にかけて日本で指導的な立場にあった、というくらいのイメージだった。

読み始めてすぐ、「仁科芳雄という出来事」と題された序文について思わずツイートしている。

 

ここに書いた通りで「仁科個人よりもかなり広い関心のもとに読まれるべき本」という認識は、読み進みながら強まっていった。科学者の伝記として関心から手に取ったが、結果として研究のインフラづくりについてより多くの示唆を受けた。これが本書の最大の特色かもしれない。

仁科と不可分に絡み合った人物や無生物全体からなる歴史的文脈を考えたとき、歴史的な対象としての仁科芳雄は、そのような歴史的文脈の一部が、ある特異な状態に引き上げられたものとして描くことができるのである。

本書が目指すのはそのような観点から仁科について描くような伝記である。仁科の重要性を示すには、彼の物理学について述べるだけでも、あるいは彼の人格、人となりについて述べるだけでも、または物理学や社会やそのほかさまざまなことに関する彼の思想について述べるだけでも不十分なのだ。この伝記は境界の両側を融合させようとするものである。(p.9)

たとえば仁科は帝大に進学し、理化学研究所で働くようになる。帝大や理研は当時どのような文脈をもっていたか。それぞれを源流からおさえていく。書名に表されているように、仁科という「個」を軸にしながらも「場」をとらえようと試みる。本が分厚くなるのは必然といえる。

 

本書は伝記でありながら、科学史にとって伝記はどうあるべきかという問いを内包している。この本はその答えになっている。本書に連なるような作品があればぜひ読んでみたいと思う。作中で挙げられていた中の1冊、小山慶太『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』(中公新書)はちょうど積んでいたのでより楽しみになった。

 

 

以下は全6部構成の簡単なメモ。

I 出自と基礎

生まれから理化学研究所の研究生のころまで。序文を読んでどこから始まるのだろうかと思っていたら、生まれた村の歴史から始まって驚いた。大学では電気工学を研究していて、物理学へ転向したという経緯も興味深い。科学研究の重要性が認知されておらず、研究をする「雰囲気」がないころの日本というところからのスタート。

 

II 渡欧時代

仁科はヨーロッパ留学へ。イギリス、ドイツ、デンマーク。仁科がボーアの研究所に滞在した時期を書いた「第六章 コペンハーゲンの物理学」がとりわけおもしろかった。科学研究を支える文化をどうつくるか、研究室をどう運営するか。世界レベルの実践に出会う。やがてこの経験を見本に、研究室を立ち上げることになる。

仁科芳雄はかつて物理学を「一生の仕事とするに足りない」と言っていた。そのままなら、物理学をやめ、ほかの目標を見つけていたかもしれない。科学玩具の製造を志したが、それは事業を起こして立身出世し、衰退した仁科家を再興するという子供時代からの価値観にもよく合った人生設計だっただろう。そんな中、ゲッチンゲン滞在中に母を亡くし、人生の目標の多くを失った。そして何を言っているのかよくわからないという理由でボーアに興味を持ってコペンハーゲンを訪れた。ところが、コペンハーゲン滞在中に、物理学の研究に目覚めた。それどころか、それを人生の目標と定めるようになった。それは、まずはエックス線分光学による化学分析の研究から始まった。しかし、そこから仁科の関心は、量子力学の理論的研究に広がり、最先端の理論研究に貢献するまでに至る。(p.246)

 

III 量子力学の伝道

仁科の留学中に、日本でも物理学に意欲のある若者が増えてくる。しかし指導者が不足していたところに、仁科が日本にもどってきて研究室をつくる。当時の情報の流通は限られていて、文献はあるものの留学や招待講演などで海外の研究者と接触することはいま以上に重要であった。海外から研究者を呼び、自身も出張して講演する。科学を普及しさらに人を集め、理論と実験の両面で研究を進めていく。

 

IV 研究の開花と巨大科学への道

日本の物理学の発展は、海外の研究を追いかけるかたちで進んでいく。実験では宇宙線の観測やサイクロトロンなどの大がかりな設備が重要になってくる。それにともない、研究は個人的な規模にはおさまらず、組織的な連携が必須となっていく。エックス線や放射線と関連して、生物学や医学方面の研究にも着手する。理論のほうでは湯川、朝永、坂田を中心に最前線の研究へと発展し、仁科は彼らを支援するようなポジションへと移っていく。

 

V 戦争

第二次世界大戦下、科学者たちも戦局に貢献すべく、戦時の研究に動員されることになる。物理学まわりで気になるのはやはり核エネルギーの研究で、つまり原子爆弾の構想や研究は日本においてどうなっていたのか。当時の状況および、仁科らの研究と原爆との距離感が示されている。日本に新型の爆弾(のちに原爆と判明)が投下されると、専門家として調査にも携わる。

 

VI 戦後と復興

戦後には占領政策によって、物理学の研究は制約を受けることになる。象徴的な出来事として、仁科らが作り上げたサイクロトロンの破壊があった。その入り組んだ経緯もふくめて、研究の体制がくずれたことが重く感じられる。

 

そこから学術体制、理研、学術外交をつくりなおしていく。科学というよりは行政や経営的な活動に重心が移っていく。持続的に成果がでる研究の環境、ネットワークをどうやってつくるか。インフラやカルチャーをつくることの重要性は言うまでもないが、短期的な成果は見えにくいし、業績として注目されにくい。行政の話は科学的におもしろさとは違うかもしれないが、科学史的な価値は大きい。そこを丹念に描いている。

 

 

 

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