沢木耕太郎ノンフィクションⅦ『1960』

沢木耕太郎ノンフィクション〉第Ⅶ巻は社会/長篇。1960年をテーマにした2作を収録している。どちらも傑作。

1960 沢木耕太郎ノンフィクション7

 

「危機の宰相」

初出:「文藝春秋」1977年7月号

1960年、岸のあとに首相になった池田勇人が「所得倍増」を掲げる。この有名なキャッチコピーはどのようにして生まれ、実行されたのか。そのルーツをたどりながら、1960年代初頭、安保の危機から政・財・官の「蜜月」へと転じた日本政治の動きを描き出す。

1960年代は、経済の発展がそのまま幸福につながると信じることができた、とある。書かれた1970年代当時から見て、その点では良い時代とされる。みなが同じ目標を共有できた時代。ただ作中にもあるように、公害などの問題がまだ広く認識されていないという側面は意識しておかなくてはいけない。

 

池田政権は1960年から1964年まで続いた。それは安保から東京オリンピックの終わりまでにあたる。日本の戦後の復興期が終わり、そのまま成長していくか停滞するかの分岐点で、国家の構想が問われていた。そうした文脈のなかで生まれたのが「所得倍増」のアイデアで、重要な役割を果たしたのは3人の元大蔵官僚だった。

 

池田勇人は大蔵省でキャリアをスタートするが、出世争いのなかでははじめから傍流にいた。入省して4年目には、症例の少ない皮膚病により闘病生活を余儀なくされ、5年ものあいだ仕事から離れることになる。その間に妻を亡くすなど、つらい時期を過ごす。のち幸運によって大蔵省に復帰し、やがて税の専門家として評価をあげていく。

2人目は田村敏雄。大蔵省から満州へ出向し、戦後シベリア抑留で5年間の強制労働を課される。帰国後に池田が政治家となったことを知り、後援会・宏池会の事務局長をつとめる。池田を国のトップにするという思いで、資金の管理や雑誌の発行、研究会を組織する。雑誌はアイデアの原点となり、研究会で池田は下村治と出会うことになる。

下村治は経済学者で、のちに池田のブレーンとなる。大学在学中に結核を患い、大蔵省に入省してからもたびたび再発する。部署を転々としたのちに闘病生活に入る。その間、自身の理論をまとめて発表するようになり、一部のエコノミストから注目を集める。1950年代には経済論壇に悲観的な空気が支配するなか、日本経済の高い成長力を見通した。統計資料を読み込むことで、特に経済成長と設備投資との関連に先見の明があったとある。

 

彼ら3人はみな大蔵省に入省したものの、それぞれの困難にぶつかり、官僚としての出世ルートからは外れてしまった。彼らは「敗者」としてそれぞれの道を進みながら、やがて「所得倍増」というビジョンで結びついていく。2人のリアリストをロマンティストの田村がつなぐ。雑誌や研究会といった活動は表立ってみえにくいが、組織の力はそういうところから生まれるのだろう。

池田の「勘」と下村の「理論」を結びつけたのは田村であり、彼の存在は単なる仲介者という域を超える重要なものだった。この三人の独特な結びつきの中から「所得倍増」は生み出されていったのである。池田が時代の〈子〉であり、下村がその〈眼〉であるなら、田村は時代への〈夢〉そのものであったかもしれない。

 

三人はまさに人生の「ルーザー」たちだった。ともに、永く「敗者」としての立場に甘んじ、一度は自分自身の死を間近に見なくてはならなかった。

 

この三人が共有することになる、日本経済への底抜けのオプティミズムは、彼らがともに一度は自分自身の死を間近に見たことがあるということを考えるとき、ある種の「凄味」すら感じさせられる。

 

もし彼らのひとりが人生の「ルーザー」でなかったら……。歴史に「もし」は無用だと知りながら、その過程にあえて答えてみたくなる。おそらく三人が邂逅することもなく、だから「所得倍増」が生を受けることもなかったろう、と。

三人の「敗者」がオプティミズムのビジョンで結びついた、という見立てにもとづくストーリーの組み方、そしてそのディテールが本作最大の魅力になっている。

 

意外だったのは、「所得倍増」のような楽観論はけっして経済論壇で多くの支持を得るものではなかったということ。

だが、日本経済が巨大であるということを国民の誰もが疑わない現代においてではなく、いったい日本がどこへ行くかもわからなかった一九五〇年代の半ばに、「日本経済には力強い成長力がある」といいつづけることがどれほど困難なことであったか。マルクス経済学という、特殊日本化し極端なペシミズムを基調とするようになってしまった学派が正統とされる当時の経済論壇の中で、オプティミストたりつづけることはいま考えられるほど容易なことではなかったはずだ。経済論壇は日本経済への悲観論で満ちあふれていた。

1964年に開業する新幹線についても反対論が大きかった。そもそも当時は鉄道が斜陽とされ、長距離移動は飛行機が主流になるという見方だったらしい。それが驚きだった。適切な楽観論をとなえるつづけることの難しさを思う。



「危機の宰相」というタイトルからは、1人のトップの功績という内容が想像されるかもしれない。だがそうではなく、人とのつながりから経済思想について独自の切り口でまとめている。このシリーズで沢木耕太郎のさまざまなタイプの文章を読んできたが、さらにもういちだん幅の広さを感じた。これを1ヶ月半で書きあげたとは…。

 

 

「テロルの決算」

初出:「文藝春秋」1978年1~3月号

人間機関車と呼ばれ、演説百姓とも囃されたひとりの政治家が、一本の短刀によってその命を奪われた。

それは立会演説会における演説の最中という、公衆の面前での一瞬の出来事であった。

凶器は鎌倉時代の刀匠「来国俊」を模した贋作だったが、短刀というより脇差といった方がふさわしい実質を備えていた。全長一尺六寸、刃渡一尺一寸、幅八分。鍔はなく、白木の鞘に収められていた。

その日、昭和三十五年十月十二日、日比谷公会堂の演壇に立った浅沼稲次郎には、機関車になぞらえられるいつもの覇気がなかった。右翼の野次を圧する声量がなかった。右翼の妨害に立往生する浅沼の顔からは、深い疲労だけが滲み出ていた。委員長になって以来、さらに激しくなった政治行脚を、もうその肉体は支えきれなくなっているのかもしれなかった。しばらくの中断の後、浅沼は再び演説を始めた。

「……選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると」

そこで声を励まし、さらに、

「どんな無茶なことでも……」

と語りかけようとした時、右側通路からひとりの少年が駆け上がった。

両手に短刀を握り、激しい足音を響かせながら、そのまま浅沼に向かって体当たりを喰らわせた。

浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝し気な表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した。

少年はさらに第二撃を加えたが、切先が狂い左胸に浅く刺さったにすぎないと察知すると、第三の攻撃を加えるべく短刀を水平に構えた。

浅沼は驚きだけを表わした顔を少年に向け、両手を前に泳がせた。そして、四歩、五歩よろめくと、舞台に倒れた。

少年は、一瞬の空白の後で懸命に飛び出してきた十数人の私服刑事と係員に、凄じい勢いで取り押さえられた。

浅沼はすでに意識がなく、間もなく絶命した。血はあまり流れなかったが、それは脂肪が傷口を塞いだだけのことで、死因は出血多量だった。流れ出なかった血は体内で凝固し、その重さは千五百グラムもあった。

 

冒頭2ページほどを読んで、いったん本から目を離した。このリズムの良さと臨場感はなんだ?もう一度、「人間機関車と呼ばれ」から「千五百グラムもあった。」までを体感してみる。謎は解けない。この密度で長篇がはじまる。

 

1960年10月12日、社会党委員長であった浅沼稲次郎が殺害された。犯人の山口二矢は右翼活動をする当時17才の少年だった。どのようにして二人は日比谷公会堂の演壇で相まみえたのか。被害者と犯人の両サイドから、事件当日の朝の動き、それぞれの生い立ち、事件発生、事件の余波という順番で進む。

 

自分はこの事件ごと知らなかった。ほかの情報源も見ていないので、ことの正確さについての基準をもっていないが、この作品の記述の緻密さはリアリティを感じさせる。書き出しの印象的なシーンですでに思うところだが、私的な場面でもそう。たとえば事件当日の朝。二矢は自宅で起床し、出勤前の父親といくつか言葉をかわす。朝食をとったあとに読売新聞を読む。その紙面で三党首演説会が開かれることを知る。朝日や毎日にその情報はなかった。

 

山口二矢がなにを考えていたのか。とくに本人の意志なのか、だれか裏にいたのかが争点になっている。彼は左翼への怒りから右翼活動へ没頭するようになるが、やがて右翼にも失望していく。取り調べでは単独の犯行であると主張した。当然ながら組織的な背景を疑う者は多かった。この作品では彼の人生を描くことで、彼の意志を浮かび上がらせている。共感はしなかったが、真面目に受け取らなくてはならないものだと感じさせる。

 

事件発生の瞬間はさまざまな視点から立体的に描かれる。三党首演説会にあつまった警察、新聞社、右翼団体、司会のNHKアナウンサー、自民党民社党社会党。野次やビラが飛び交うなか、とくに警備サイドの状況は切迫感がある。多くの偶然が重なったすえの悲劇だとわかる。人生の交錯という言葉を使いたくなる。

 

 

 

 

 

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