〈沢木耕太郎ノンフィクション〉6巻は、人物/長篇として4作が収められている。長篇としては「檀」と「無名」の2本立てで読みごたえがある。また「檀」にまつわる短めの文章が2つ付されている。長篇2作はまったく別の人物を描いているが、亡くなった人を一人称で追想するという共通点もある。
「檀」
初出:「新潮」1995年7月号
作家・檀一雄と生きた日々を、妻のヨソ子が回想する。文はヨソ子の一人称「私」で書かれている。若くして最初の夫を戦争で亡くしたあと、11歳上の檀と再婚する。檀は戦前に芥川賞の候補になったが、結婚した当時は売れない作家であった。一時は商売をしてみるがうまくいかず、福岡から上京して作家としての道を選ぶ。
東京で文壇に復帰し、直木賞受賞や子供が生まれたりと、不安を抱えながらも生活は上向いていくかに思えた。それから子どもの病気があった。さらには檀は「僕はヒーさんとことを起こしたからね」と告げ、愛人とホテル暮らしを始める。それを『火宅の人』という連載に書くようになる。私小説的に書き進められたその物語では名前は変えられているが、明らかに檀の周囲の人物を描いており、妻としては許しがたい記述もでてくる。
檀一雄のことはなにも知らなかった。太宰治や坂口安吾らと交流し無頼派とされるらしい。無頼派についても詳しくないが、いまなら到底許容されない言動がでてくる。なぜそんなことになったのか容易には理解しがたい。長年にわたって積み重なった愛憎が入り混じった2人だけの世界をうかがわせる。
私小説的な作家の妻のイメージは作家によってつくられてしまい、反論の機会はそうそうない。それはつらいことだろうと想像する。しかしこの文章は告発を意図したものではない。またそうした批判からの擁護でもない。ヨソ子はどのように檀のことを語るのか。その語りを通して、ヨソ子の人物像を、檀が書いたのとは違うしかたで描き出そうと試みる。取材対象の一人称で書く手法は、違うしかたの一例であり、本人の言葉らしさを強めていると感じた。
「鬼火」
初出:「ヴューズ」1996年11月号~1997年3月号
ポルトガルの紀行文とともに「檀」の執筆経緯を記した文章。旅の目的地はポルトガルのサンタクルス。そこは檀一雄が晩年に暮らした土地で、妻のヨソ子も一緒にそこに滞在したことがある。ポルトガルに着いたらすぐにサンタクルスへ向かうのかと思いきや、リスボンで何日もぐずぐずしていて、遠回りをする。
週1回1年にわたって檀の未亡人に話を聞きに行った。サンタクルスでのある場面をきっかけに、文章は書き始められた。書き終えたあと、檀の晩年の足跡を追うように旅にも出た。
そう、私は生身の檀一雄に会うことがなかった。そして、『檀』を書くことでも檀一雄に会えなかった。確かに檀一雄とその妻について書いた。しかし、ついに檀一雄その人を書くことはできなかった。その欠落感が私をこのサンタクルスまで来させたのではないか、と。
檀一雄をとらえきれていないのではないか、という心残りみたいなものが消えない。ラストで再びサンタクルスへ戻ろうとする沢木は、ある偶然をきっかけに立ち止まる。タイトルの意味がわかって少し怖くなる。
「天才との出会いと別れ」
初出:檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2002年2月)
文庫解説として書かれた短めの文章。檀作品のなかでヨソ子が一番好きなものは『小説 太宰治』だという。沢木自身はあまり評価していなかったが、それを聞いて再読する。書かれているのは、太宰治と過ごした若い頃のこと。
しかしなぜ「小説」なのか。このあたりの読みがおもしろい。
そしてそれは、確かに太宰治の評伝でもなく、単なる交遊記でもない、まさに「小説」としか言いようのないものだったということが理解できてきた。そのときの「小説」は、ノンフィクションとしての徹底性を貫けないから虚構の装置を使うという意味における「小説」ではなかった。なぜなら、檀一雄がここで描こうとしたものは太宰治にまつわる「事実」ではないからだ。檀一雄は、嵐のように過ぎ去り、時を隔ててしまえば幻のようでもあった狂騒、狂熱の日々を、不可能と知りつつ文章に定着しようとした。
狂騒、狂熱の日々。それを青春の日々と読んでもいいだろう。さらにそれを「文学的青春」と呼ぶことも可能なはずだ。檀一雄が太宰治との「文学的青春」を語ろうとしたとき、それがすでに鳥の影を摑まえる以上に難しいことを知っていた。記憶は、二人で過ごした日々から隔てられた「時間」によって、また、二人が歩んでいった地点の「距離」によって微妙に変形されている。しかし、檀一雄はあえてそれを事実という名の修正液を用いて正すことなく、記憶のまま一気呵成に書き記そうとした。そのとき、書かれたものはすでに「小説」としか呼びようもないものだったのだ。
檀は太宰治と出会い、彼のような天才にはなれないことに気づかされる。それでも自分のテーマを書いていく。それが「事」を起こした『火宅の人』への道だったのかもしれない。だとするとまた違った見えかたもでてくる。
「無名」
初出:『無名』(幻冬舎、2003年9月)
沢木耕太郎の父親の晩年、入院してから亡くなるまでのことを書いた長編。いつかじっくり話を聞こうと思っていた相手だが、もうあまり時間が残されていない。母と2人の姉たちと交代しながら身の回りの世話をすることになる。
あるとき病室に置いてあった雑誌を見つけて、父が俳句を再開していたことを知る。
確かに、父は何事も成さなかった。世俗的な成功とは無縁だったし、中年を過ぎる頃まで定職というものを持ったことすらなかった。ただ本を読み、酒を呑むだけの一生だったと言えなくもない。無名の人の無名の人生。だが、その無名性の中にどれほど確かなものがあっただろう……。
私は少々感傷的になりすぎていたのかもしれない。だが、そのとき、ふと思い浮かんだのが俳句だった。俳句には、父の生の断片が五七五によって定着されている。それを一冊に束ねれば、父が自分の人生を確かめるものになるかもしれない。そうだ、私家版の句集を出してあげよう。
夜中の付き添いで、ベッドの横に座って父のつくった俳句を読み、そこに込められたものを考え、昔のことを思い出す。子どものころに見ていた父親はいま思い出すとまた違った風に見えてくる。すぐ隣りにいる父と直接言葉を交わすのではなく、雑誌やノートに書かれた俳句を読み込んでいる。この情景を思い浮かべたとき、2人の距離感が端的にあらわれているようなリアリティがあった。
句集をつくるべく作品を整理するなかで、文章も発表していたことを知る。そして文のリズムが自分と似ていることに気づく。引用されているが確かに似ていて、偶然とは思えないものを感じた。
父は、沢木耕太郎をして、いつになったら対等に話ができるかわからないと思わせる広範な知識をもつ読書家だったとか。そして叱られたことが一度もなかった。
なぜだったのだろう。自分が子供を持つようになったいま、父の私に対するこの徹底した不干渉には凄みすら感じられる。
父には自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた。もしかしたら、自分を何物でもないと見なす心性が、たとえ子供であっても恣意的にコントロールしてはならないという考えを生んだのだろうか。
父の入院によっていくつもの決断をせまられる。医師から聞いた病状をどう伝えるか。治療の方針はどうするか。入院を続けるか、家に帰るか。葬式はどうするか。そのたびに父はどんな人なのかを考えることになる。
家族という慣れ親しんだ関係でありながら、初めての事態に遭遇し、違う一面を見る。ふだんは見えていない医療情報にふれ、生活スタイルも一変する。20年経ったいまとは多少状況が違うかもしれないが、だれにでも起こる普遍的な体験談として読んだ。
・文庫化情報
「檀」
「鬼火」
「天才との出会いと別れ」
「無名」