『集まる場所が必要だ』、『メタバースとは何か』

社会学者のエリック・クリネンバーグ『集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』(訳・藤原朝子英治出版を読んだ。コロナ以降、一か所に集まらないで働いたり、人と話したりということが増えた。集まることの意味はどれだけ残っているだろう、なんて思いながら本屋を歩いていて、この本を見つけた。

集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学

原著は2018年出版なので、書かれたのはコロナ以前。もうそのころのことを忘れかけているが、いまと変わらず集まる場所は重要なテーマだった。この本でいう「集まる」は物理的な場を前提にしていて、そうしたインフラの価値を主張している。

 

著者がこのテーマに興味をもったのは、1995年のシカゴ熱波だった。その1週間は平年よりも死者が739人多くでた。ただ地区によって被害の程度が大きく違い、要因を調べてみると、人々が交流する場所の重要性が見えてきたという。たしかに熱中症になったときは、1人で部屋にいるよりどこかに集まったほう助けてもらいやすい。

 

図書館、理髪店、運動場、公園、レストラン、学校、農園など、人々が集まる場所を社会的インフラと名づけ、さらに調べていくと、熱波のような災害だけでなく、健康や犯罪率とも関わっている。


図書館の話では、コミュニティとして使う例が多くあった。語学講座やコンピュータ教室、Xboxのボウリング大会など学習から娯楽まであって、思っていたよりだいぶ幅が広い。読んでいて映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を思い出した。公共性を担うことを徹底して考えていて、図書館で働く人たちの信念を感じる映画だった。

 

 

人々の交流は、場所本来の目的というよりも副産物みたいなところがあって、同じような場所でも、しくみによって交流のしかたが変わるという例も。

これに対して、効率を重視する社会的インフラでは、交流や人間関係の強化は抑制される傾向がある。最近のある調査では、子どもを迎えにきた保護者が、施設内で(多くの場合教室で、子どもたちが同時に引き渡されるのを)待つことを奨励する託児所は、保護者がそれぞれ都合のいい時間に送迎ができる託児所よりも、保護者間の社会的つながりや助け合いを推進することがわかった。(p.35)

無駄にみえる待ち時間がつながりをつくる。保護者の時間的余裕みたいな根本のパラメータがありそうだけど、場所のデザインの例としておもしろい。


自分のことを振り返ってみると、とくに小さいころは集まる場所の役割は大事だったなと思う。学校とかスポーツのコミュニティが大きかった。それは子どもたちが交流するのにくわえて、親同士がつながる貴重な場だったのかも。

 

 

対面の価値を主張する一方で、SNSやテクノロジー企業に対しては批判的だ。テクノロジー企業は、人をスクリーンの前に座らせておくことを考えているからだめということなのだけど、ちょっと一面的すぎる気もする。それはそれで違う種類の関係をつくっているはず。

 

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岡嶋裕史 メタバースとは何か~ネット上の「もう一つの世界」』(光文社新書は対照的な本だった。最近のバズワードであるところのメタバースを解説する。フィクションのなかのメタバースGAFA動向などを織り交ぜながら。

メタバースとは何か~ネット上の「もう一つの世界」~ (光文社新書)


この本では、「現実とは少し異なる理で作られ、自分にとって都合がいい快適な世界」をメタバースと呼んでいる。すべてを好きなようにつくるという方向。「自分にとって」とあるので、人それぞれの空間という意味だと読んだ。一方で、現実に似せた空間を仮想的につくる方向は、ミラーワールドやデジタルツインというワードで呼び分けている。

 

VR技術などを利用して、できる限りの体験をその世界で完結させる。仕事も娯楽も。新しく世界をつくるからには、現実への不満をクリアしたい。その意味で、この本もSNSへの批判がある。ただ角度は全然違う。

 

いわくSNSが未完成なのは、仕事や学校の時間はSNSを離れないといけないから。それに価値観が合わない人との接触で傷つくなどのリスクがあるので、さらに快適な場所をつくろうというわけだ。

 

SNSのように心地よく、風のそよぎや花の香りさえ楽しめ、そこでお金すら稼げるような世界が実装されたら、ほとんどの人生をそこで過ごしてもよいと考える人はたくさんでてくるだろう。それが健全かどうかはわからないが、ニーズは確実にある。(p.35)

このあたりを読んでいて、まさに不健全だと思ってしまったが、本当にそうだろうかと思い直す。自分のなかに、快適なネット空間=不健全という認識があることに気づかされる。

 

もう一つの世界に移住すれば必ず幸せになれるわけではない。むしろ、自然状態では、もう一つの世界でも発揮すべき能力がなく、なじめず、敗北感と疎外感に打ちひしがれる人を大量に生むことになるだろう。

私はこうした状況にたいして、フィルターバブルの境界を個々人にしてしまうことで、フリクションをなくす手法があり得ると考えている。今、SNSがやっていることをもっと極端にするのである。同質の人間すらバブルの中に入れない。話し相手や遊び相手が欲しくなったら、AIを立てる。(p.116)

これまで「フィルターバブルはダメ」という文脈に慣れすぎていて、この一節にびっくりしてしまった。だがよく考えると、物理空間だったらそうは思わない。個室で過ごす時間はけっこうある。

 

おそらくこういうことだと思う。ネット空間はアクセスが良くて人が多いので、快適な空間にするための他者を排除するしくみが目立つ。一方、物理空間はもっとアクセスが少なく、排除も自然にしているので気づきにくいだけなのかなと。

 

こう考えていくと、当然ながら快適な空間はあったほうがいい。私的なものとしてはそう。ただ、公共空間はどうなるだろうとつい考えてしまう。

 

メタバースを描いたスピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』は、ラストでは現実が大事みたいな路線だった。ゲーム内での出会いから始まるフィクションって、実際に会うことでドラマが動きがちだけど、そうじゃないパターンもあっていい(たぶんまだ自分が知らないだけ)。

 

まあ現実もメタバースもどちらも大事ということでいいのだけど、どういう使われ方になるのかはとても興味がある。自分はVRをそんなに試せていないので、まずはなんかやってみたい。