二つの『文学のエコロジー』

2023年の秋に『文学のエコロジー』というタイトルの本が2冊刊行された。

ネットで「文学のエコロジー」という文字列を見て、「文学」も「エコロジー」もなんとなくわかるが組み合わさるとうまくイメージできなかった。それだけになにが書かれているんだろう、と興味をひかれた。そしてもう1冊同じタイトルの本が同時期に出るときた。これは両方読んでみたくなるというもの。

宮下志朗『文学のエコロジー

文学のエコロジー (放送大学叢書)


まずはこちらの本から。まえがきを読むと、2013年の放送大学の教材を中心にして編まれた、とある。「文学のエコロジー」は科目の名称で、学際的あるいは超域的な科目をという要望に応じたものらしい。

エコロジー」という単語を国語辞典で引いてみると、「1・生態学、2・自然環境保護」となっている。われわれは「文学」というと、どうしても「作品」とか「作家」を思い浮かべる。しかしながら、そうした「作品」が、いかなるプロセスで成立したのか、また、いかなる環境で流通し、受容されたのかといった問題を捨象して、純粋にテクストだけを対象とするのは、「文学」の理解にとっても、けっして幸福なこととはいえないだろう。(p.4)

文学を理解するために「作品」や「作家」のことだけでなく、外側にある環境とのつながりにも目を向けてその生態系を描き出そうと試みる。文学史や書物史、メディア論に重なるところが大きい。

 

環境というのは具体的にはどういうことか。たとえば、いまから小説を読むとしよう。近くの本屋に行って、目のつくところに置かれた本を手に取る。その本は印刷所で印刷され、取次があり、本屋に届けられた。さらにさかのぼっていくと、作家が原稿を書き、出版社と契約して発行を決める。そんなことを思い浮かべる。

当然ながら、こうした環境は最初から自然にあったわけではない。本屋、流通、著作権、印刷、紙など、いずれも存在していなかった。しかしそれ以前にも文学は存在していた。

本書は口誦文学をスタートに定める。文字以前の世界で口伝えによって語られた物語だ。現存しているのは書かれたものだけなので、当時の状況をそのまま知ることは難しい。だが、語り手や写本の書き手によって物語が変容することを考えると、「作者」や「作品」の概念は現代とは違うものになりそうだ。そこから中世、ルネサンスを経由して、主にフランス文学の動向を中心に、文化としての環境がつくられていくさまをみることができる。

 

山本貴光『文学のエコロジー

文学のエコロジー

次はこちらの本を見ていこう。「群像」で2022年から2023年にかけて連載されていたもの。やはりプロローグで本書の目的についての案内がある。

まずお伝えすると、本書では、文芸作品になにがどのように書かれているかを眺めてみる。それ以上でもそれ以下でもない。(p.12)

文字で組み立てられた世界がどんな要素と関係からできているか、つまりはどのようなエコロジー(生態系)であるかに注目する。(p.13)

宮下本との違いは明確だろう。本書では文芸作品に書かれた世界の内部にエコロジーを見ている。また文芸批評との違いでいえば、解釈や価値判断ではなく、構造やメカニクスに焦点をあてていくという方針だ。

「なにがどのように書かれているかを眺めてみる」。これは普通に読むのとどう違うのか。シミュレーションと比較してみるというのが本書の特徴的な方法だ。シミュレーションというのは、文芸作品に描かれた世界をコンピュータのなかに再現して動かしてみるということ。そのためにはどんな要素が必要だろうか、と考えながら読んでいくことになる。

 

このあたりを読んで、自分はまずアニメ化のことを思い浮かべた。小説をアニメにするとしたらどうするか。文章をもとに絵をつくる必要がある。人や物はどんな大きさや形や色をしていて、どのように動くのか、すべて表現しなくてはいけない。それから画面のレイアウトも必要になる。そのシーンでは体全体が映っているのか、顔のアップなのか、前顔なのか横顔なのか。

シミュレーションはさらにもう一段掘り下げる。たとえば物理法則も取り入れる。パラメータにも幅をもたせていて、複数パターンの動きをすることも考慮に入れる。逆にアニメの場合ような、画面レイアウトのことはいったん考えない。画面の外も含めて一通り3次元でつくろうという構えだ。

つまりシミュレーションの中にカメラを置いて撮るとアニメみたいになって、アニメを文章にすると小説になる。そして本書ではその逆をやろうとしていると理解した。文芸作品を読みながら、これをシミュレーションするとしたらと考える。この方法論をもって、空間、時間、心といったテーマにアプローチしている。

 

この方法で明らかになるのは、アニメ化のところで考えたように、文芸作品に書かれている情報が限られているということだ。「古池や蛙飛びこむ水のをと」という松尾芭蕉の俳句を検討しているが、無数の省略が明らかになる。蛙の数さえ定かではない。それは悪いことではない。読者はそこをなんらかの方法で補う。それこそが文学の体験というわけだ。なので読み手によって、あるいは同じ人であっても時と場合によって体験は変わり得る。

 

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読み比べてみると、二つの『文学のエコロジー』はかなり違う印象だ。一方は作品の外側、他方は作品内世界のエコロジーに着目している。これはなかなかおもしろい。とはいえ、文学の前提や基盤となるものに目を向けてみるという点で、共通するものもあるように思う。ほかにはどんなアプローチがあるだろうと考えるのもいいかもしれない。もし第三の書が出たら読んでみたい。