沢木耕太郎ノンフィクションⅡ『有名であれ 無名であれ』

沢木耕太郎ノンフィクション〉の第Ⅱ巻。人物/短編というテーマで18作を収録している。前半の11作は「若き実力者たち」という連載から。当時24才の著者が、同世代の活躍している人を取材した。後半には個別に書かれた文章が並ぶ。前半と後半の間に1年の空白があり、ちょうど『深夜特急』の旅行前後にあたる。

 

沢木耕太郎ノンフィクションII 有名であれ 無名であれ

 

 

「神童 天才 凡人」

初出:「月刊エコノミスト」1972年6月号

当時24才で名人に挑戦した将棋棋士中原誠の軌跡。5才のときに将棋を覚えると早くから才能を発揮し、神童とともてはやされる。10才で地元から送り出され、東京でプロの弟子になる。奨励会では順調に昇級していくが、周囲の反対を押し切って高校に入ったころに将棋の成績は伸び悩む。高校を出ると四段プロデビューを果たし、目覚ましい活躍が続く。

 

「十で神童、十五で才子、二十過ぎては凡の人」ということわざがあるが、中原誠は凡人であり、かつ天才であるという。そこに個性を見出している。華々しいエピソードはない。強い意志もみせない。将棋以外から遠ざけられ、与えられた道を受け入れて進む。それでも平凡さのなかに非凡を見極め、将棋を指し続けた。この天才像はあまり見かけない。中原誠の年度最高勝率.855(1965年度)は、2023年のいまでも歴代1位のままだ。

 

「廃墟の錬夢術師」

初出:「月刊エコノミスト」1972年7月号

劇作家・演出家・役者の唐十郎。大学で演劇科に入るも、「平凡でナイーブなだけの若者」で「マトモ」に卒業する。早熟なタイプではない。お金がない時代、全国のキャバレーを回り、金粉ショーのダンサーとしてお金を貯め、舞台の資金とした。

赤テントには、猥雑さと笑いとくやしさと哀しさと高貴さと、つまり無数の情念が飛びかう戦場のような舞台が生まれた。腐った都市空間に一時の夢を浮かべ、それが修羅場に変わり、それが突然終結すると、そこには深い廃墟が現出する――というかたちで、唐はロマンを練りつづけた。いわば、彼は廃墟の錬夢術師だったのである。

 

演劇の文脈に明るくなくても名前は聞いたことがあった。平凡な学生時代、アンダーグラウンドの活動から文化的なアイコンになる。どんなことをしてきたかは追えたのだけど、どんな人なのかがいまひとつつかめない。著者もつかめていないというし、近しい人を取材していても矛盾するような答えが同じ人から返ってきたとか。理解されることを拒否するというか、揺さぶるというか。

 

「華麗なる独歩行」

初出:「月刊エコノミスト」1972年8月号

華道家・安達曈子。安達式挿花の初代家元の娘として生まれる。2人の兄よりもセンスを見込まれ、後継者に指名されて引き受ける。家元は胃潰瘍の手術後だったこともあり、急いで多くを吸収しなければならないという重責のなか修業の日々がはじまる。小学生のころに考えていた「いいお嫁さん」の道は断念することに。やがてメディア出演や文化使節など活躍の場を広げ、独自の道をいく。

 

Ⅰ巻を含めてここまで女性がメインになっていなかったが、ようやくここで。冒頭、映画『シェルブールの雨傘』をフックにするところがいい。花を飾るとき、人はどのように動くか。人生のなかで大切なものを諦める日のこと。この導入で一気にひきこまれた。

 

「過ぎ去った日々でなく」

初出:「月刊エコノミスト」1972年9月号

元日大全共闘議長、秋田明大。本人のモノローグで半生を振り返る。幼少期、高校、大学、学生運動、逮捕、その後。日大闘争の本質は「人間の解放」で、闘争そのもののなかに生きている実感があった。しかし、闘争のなかで秋田の存在はシンボルとなり、自身から離れていった。本人いわく「虚構」化され、手ごたえがなくなっていったという。

 

これまでの人選からするとかなり異色。手法としても本人談にしていて一味違う。著者はノートに、この連載で最も書きたかったのは秋田かもしれない、と書いている。対象よりも著者の関心が前面に出ている気がする。ぼくにとって、学生運動は言葉として知っているだけで、なにも実感がない。生まれるだいぶ前のこと。過激なイメージがあるが、これを読むとそんな感じもしない。あまりにも当たり前だが、そこにはいろんな人がいて、ひとつの見方では割り切れないものがあるのだろうと思う。

 

「錨のない船」

初出:「月刊エコノミスト」1972年10月号

イラストレーター・黒田征太郎。タイトルがあらわすのは黒田の人生で、漂流するように生きている。高校をやめてから30以上の職を転々とし、デザイナー見習いとなる。しかし、事務所縮小にともなってはじきだされると、家族を残して計画もないままアメリカへわたる。英語も話せないなかで仕事を渡り歩いて、デザイン事務所に採用される。日本に帰国すると、あっという間に売れっ子になる。イラストの仕事はもちろん、ラジオもやって、テレビの司会もした。

 

イラストレーターになるまでの紆余曲折がありすぎて、ちょっと理解が追いつかない。自分にはとても真似できそうにないが、沢木耕太郎が『深夜特急』の旅に出るきっかけにもなったとか。黒田の作品論をいくらでも深められそうなところ、そっちにはいかず、徹底して生き方にフォーカスが合っているのがいい。

 

「望郷 純情 奮闘」

初出:「月刊エコノミスト」1972年11月号

映画監督・脚本家の山田洋次。彼には故郷がない。満鉄のエンジニアだった父親は転勤が多く、満州を転々とする幼少期を過ごす。戦後に日本へ引揚げて、学校で学ぶ。山田は個性のない優等生だった。東大から松竹へと進んでも、ほかの監督たちと比べて鮮烈なイメージや個性がない。しかしそのことを武器に、周りの個性を引き出すようなスタイルで映画を作る。

 

ドラマ『男はつらいよ』の最終回放送後、フジテレビに電話が殺到したエピソードから書き出す。寅さんの死に対する苦情だ。都会でも田舎でもない、みんなが共有する故郷の喪失感。柴又という舞台設定に、故郷がないゆえの故郷への執着を見てとる。自分には個性がないという自覚の先に、周りの人の個性への好奇心がでてくるという話。個性が持ち上げられる時代に、違う視点を与えてくれる。

 

「十二人目の助六

初出:「月刊エコノミスト」1973年1月号

歌舞伎役者、市川海老蔵。十二代団十郎、いまの団十郎の先代にあたる。本名は堀越夏雄という。当時はこれからを期待される若手。歌舞伎役者の家に生まれ、子どものころから稽古に励む一方で、友人たちの「何にでもなりうる自由」をうらやんでいた。伝統ある名前の受け継ぎ、芸人になる覚悟を決めるまでが描かれる。

 

継ぐことを運命づけられた人生とはどんなものだろうかと想像しながら読んだ。伝統とはなにか、自由とはなにか。印象的だった一節を。

若さというのは無軌道につながらなければ嘘だし、自分のやりたいことに何も考えずに突っ走ることだ、と彼は考えている。しかし、彼は自分のやりたいことに突っ走るのではなく、やらなければならないものを少しでもやりたいものししよう、端的にいえば、好きになろうと努めてきた。その意味では、ある種の若さを失っているかもしれないことを、彼は認めている。しかし、自由であるということは、自分の道がまだ見つからない状態でもある。彼は、自由さを代償に、《俺は母の腹にいる時から「運命」を摑んでいる》と思うようになってから、人生みんな五分五分と思うようになった。

 

「人魚は死んだ」

初出:「月刊エコノミスト」1973年2月号

海洋冒険家・堀江謙一。本人の語りを中心に構成。エベレストが征服された翌年、彼は高校のヨット部に入る。冒険に対する情熱が山から海に変わったという。24才になって、小型ヨットの太平洋単独無寄港横断に日本人で初めて成功している。その堀江が新たな冒険にチャレンジしようとしていた。次は世界一周。しかし、1年がかりと思われた挑戦は、わずか1週間で失敗に終わる。

 

冒険家は一度手に入れた栄光を、ふたたび手に入れようとする。そうしているうちに、一度手に入れた栄光すら泥にまみれてしまい、英雄が地に墜ちることだってある。だが、その時から彼の冒険家としての歩みは始まるのだ。

太平洋横断のときも、世間からは批判の声も多かった。それでも新しいテーマがほしかったという。栄光をつかんでもなお挑戦する意志に、真の冒険家の姿を見ている。その逆は、ひとつの冒険を元金にして利子で暮らす「冒険の金利生活者」と書いていてなかなか辛辣。調べてみると、1974年に世界一周も達成していた。2度の快挙の中間でうまくいかない時期だからこそ生まれた作品になっている。

 

「疾駆する野牛」

初出:「月刊エコノミスト」1973年3月号

政治家・河野洋平。政治家の父、河野一郎の子として生まれる。高校、大学の時点で政治的手腕の片鱗をみせる行動力があったという。しかしどこにいっても、親の名前がついてまわる。政治の道には進まず、企業に就職してもそれは変わらない。父の死をきっかけに、あとを継いで出馬した。選挙には強いが、まだ評価は定まっていないという時期の記録。

 

政治家を書いたノンフィクションを久しく読んでなかったなと思い至る。避けていたのかもしれない。大学時代、競走部のマネージャーとして大会の日程を有利なように調整するなど、政治的な手腕を発揮するエピソードがあったりする。そういう場面にも政治はある。「筋を通す」という美学、「保守系にしては団地に強かった」といった分析などに、知らない業界をのぞきみるような気分になる。

 

「面白がる精神」

初出:「月刊エコノミスト」1973年4月号

ムツゴロウさんという愛称で知られる畑正憲。当時38才。北海道につくった「動物王国」を著者が訪ねたときの出来事と、畑の半生を交互に織り交ぜながら書かれている。動物と楽しそうに過ごす、そんな日々に見え隠れするただ者ではない凄み。子ども時代の数年を満州で過ごし、豊かな自然と出会った。東大に進学するも、読書三昧で同人誌を出したりしていた。動物学へ進むが、物書きにも研究者にも未来が見えず、記録映画のディレクターとして働いたのち、書き上げた本で日本エッセイストクラブ賞をとり、世に出ることになる。

 

異様に動物好きというイメージだけがあったので、この文章には驚いたし、図抜けておもしろかった。若いころのことをよく知らなかったからだと思う。対象を少し知っているほうが、人物伝は面白く読めるかも。しかしそれにしても興味を惹かれる。「いつも何かに打ち込んでいる者だけが持ちうる精神の強靭さと輝き」とか、学生時代を振り返って「わからないながらに、岩波文庫はほとんど読んでいましたね」とか書かれると。面白がることの達人と評されるのもうなずける。

 

「沈黙と焔の祭司」

初出:「月刊エコノミスト」1973年5月号

連載最終回に選ばれたのは、音楽家で指揮者の小澤征爾満州で生まれ、6歳で日本に移る。貧乏な家庭であったがピアノだけは手放さず、征爾はみるみる上達していった。中3のときに聞いたある演奏をきっかけに、音楽家になることを決意し、斎藤秀雄に弟子入り志願する。高校、短大とプライベートレッスンを受け、海外へ。コンクールで認められ、指揮者の道を進んでいく。

 

師の反対を押し切ってパリへ行き、現地で知ったコンクールに出ようするも締切り後。直談判してなんとか参加すると、最終選考まで残る。言葉が通じないフルオーケストラを相手に、簡単な単語で指示して演奏をつくり1位をとる。すごすぎてわけがわからない。「ホントの音楽をやっていれば絶対に報われないことはない」という信念を貫き通す。「ヤンキー気質」、「向こう見ず」と評されているのが、読む前の印象からすると意外だったが、読めば確かに、となる。一方でこんな言葉も残している。

三十までは何でもできると思っている。ところが三十過ぎると自分に可能なことが、地図のようにはっきり見えてくるんですよ

 

「寵児」

初出:「GORO」1975年12月11日号

電話がかかってくるのをじっと待っていた。

いた、と過去形で書くのは正しくない。いまも、この原稿用紙に向かっているいまもなお、強い雨が降っているガラス窓の向こうを眺めながら、ふと耳を澄まして電話のベルを待っている自分に気がつく。ぼくは井上陽水からの電話を待っていた。

恐らくかかってこないだろう。そう思い込もうとするが、心のどこかにそんなはずはない・・・・・・と、かすかな未練が残っていたりする。

 

この書き出しでぐっとつかまれる。井上陽水について書いてほしいと頼まれた沢木は、インタビューのために電話を待っているが、何日待ってもかかってこない。井上陽水はマスコミを遠ざけることで知られていたが、なぜ淡い期待を抱いてしまうのか。その経緯を書くことで、井上陽水論として成立させる。ここまで作品を順番に読んできたが、ここに明確な線がある。媒体が切り替わったので当然なのかもしれないが、書き方も含めて圧倒的な新鮮さがある。人物伝ではなく人物論として、著者の考えが大きく展開されているところも魅力になっている。

 

「その木戸を」

初出:「GORO」1976年3月11,25日号

小椋佳は銀行に勤務しながら、シンガーソングライターとして活動してきた。本名は神田紘爾。東大卒で日本勧業銀行に入行し、エリートコースを歩む。銀行員とセンチメンタルな歌の世界。小椋佳を理解するためのいくつかの問いが提示される。彼はなぜ歌にこだわるのか。彼にとって「忘れてならぬもの」とはなにか。次男の名前を自分と同じ読みにしたのか。

 

布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットすると、職歴に注目が集まる。バリバリ働きながら創作もできて、余裕を感じる。そんな世評のなか、著者はその余裕の裏に「諦め」を見ている。少年時代のエピソードは、読んでいて苦しくなった。「なんのために生きているか」がわからない。もう考えることもできない。ならば、なにをしても大差はない...。問いの答えは、この挫折への慰めではなかったか。

 

「オケラのカーニバル」

初出:「旅」1976年11月号

ふだんタクシーの運転手をしている多田雄幸は太平洋横断シングルハンドレースに参加した。競い合う日本人4人はスポンサーの援助を受けるが、多田は仲間たちとつくったヨット「オケラⅢ」で太平洋を往復する。レース中も他の出場者の必死さをよそに、どこかゆったりしている。功名心や競争心をまるでもっていない。著者はそのことがひっかかっていた。彼をまるで理解できていないのではないか。

 

ところが、この一年、さまざま世界で、頂に登りつめようとしている人々、登りつめようとしていた人々に多く会うことを続けているうちに、多田がたまらなく懐かしく感じられてきてしまったのだ。頂に登ろうともせず、しかしだからといって人生を降りているわけでもない。当り前の人生を当り前に生きている。だが、当り前の人生を当り前に生きていくことの、なんと難しいことだろう。ところが彼は、それをごく自然に、しかもごくいきいきと生きているようなのだ。

 

『若き実力者たち』に描かれたものとは、対照的なベクトルをもった作品になっている。タイトルの意味が明らかになるラストがよい。

 

「鏡の調書」

初出:「別冊小説新潮」1977年冬季号

岡山のある町で奇妙な詐欺事件があった。片桐つるえは、町にやってきてから3年ほどで20人近くから121回にわけて600万円をだまし取った。最初の5ヶ月間は詐欺をしないどころか、代金を多めに払ったり贈り物をしたりする。「金持ちの孤老」として親しまれ、やがてなにかの言い訳を見つけては金を借りるようになる。関係を壊したくない、いつか大きな見返りがあると思って、人は騙され続ける。片桐は手に入れた金を使って、また人に贈り物をする。騙す方も騙される方も、役割を演じ続けたい。しかし疑惑が持ち上がると、その自転車操業も限界を迎える。

 

嘘みたいな話だった。詐欺師の話はエンタメとして定期的にでてくるが、どうしてこうも興味を惹かれるのだろう。人間の心理の弱いところをついてくるというのはあるかもしれない。言葉巧みに相手を信じさせるというより、信じたいという気持ちにさせる。ひるがえって、ノンフィクションはどうだろうか?ラストにはそういう視線も感じられる。

 

「帝」

初出:「小説宝石」1977年8月号

『戦後成金の没落』という本を読んだ沢木は、中部観光社長の山田泰吉のことを知る。戦後米軍相手のキャバレーでもうけて成り上がり、事業を拡大によって数十億円の資産を手にした。1961年には、世界最大を誇るレストランシアター「ミカド」をオープンさせる。しかしそれが没落のはじまりだった...。表舞台から姿を消した山田に会ってみたいと思いながらも、その機会はなく時が流れた。ある日、山田が焼肉屋をしているという噂を聞き、ゆくえを追い始める。

 

成り上がりエピソードにはあまり興味をひかれないが、何かに突き動かされている力を文面から感じ取れる。商売の才能というよりも、そのようにしか生きられなかったというような。また、ゆくえを追いかけてはニアミスを繰り返し、それでもなお山田を探しつづける著者の執念にも同じようなものを感じる。それは生き方の問題であって、栄光を失っても、望みがわずかであっても、やめるということにはならない。

 

「帰郷」

初出:「日本版PLAYBOY」1985年4月号

第9期棋聖戦第1局。挑戦を受ける棋聖趙治勲の故郷ソウルでの対局に密着する。10年前に趙治勲を取材した際、「名人になるまで待ってほしい」と言われ、書くことを半ばあきらめていたが、その後日本囲碁界の頂点に立った。6才のときに兄に呼び寄せられて来日。それは自分は名人になれないと自覚した兄の賭けだった。兄の期待を背負いながら、異国の地で「耐える」ことで勝ち方を見出していった。

 

日本にいても、韓国にいても「外の人」と思われてしまう。韓国からみれば日本寄り、日本からみれば韓国寄り。越境者の覚悟は想像を絶する。最年少で入段しても挫折感のほうが強かったという。日本に来てから、名人になる以外の自由はなかった。対局後のインタビューを通訳経由で聞いた場面が強い印象を残す。

「この試合で何がいちばん難しかったですか、と訊ねたら、趙さんはこう答えたよ。中に入って生きることが難しかった」

「中に入って生きることが難しかった……」

オウム返しに呟いて、私にはそれがまるで彼の人生を象徴する言葉のように思えてきた。

 

「秋のテープ」

初出:「月刊カドカワ」1990年12月号

ある秋の日、何もする気がおきず茫然と外を眺めていた。ふと人の声が聞きたくなり、押し入れの段ボール箱を開ける。そこにはカセットテープがつまっていて、さまざまなインタビューが収録されている。目に留まった1本のテープに導かれるように回想が始まる。《美空ひばり1984年3月13日17時/赤坂プリンスホテル》。

 

沢木耕太郎の日記調で、6年前の美空ひばりへのインタビューを回想するという構成。思いのほか陽気にしゃべることに驚きながら、話が深まるにつれ寂しさを感じ取ってしまう。ついに最後まで聞けずにテープをとめる。1989年に亡くなった大物歌手の「救いを求めるシグナル」がつらい。夜の沈黙のなかでテープを絨毯の上に広げ、これまでの取材対象のことを思い浮かべる。何人かはもう亡くなっている。「死者のテープ」を拾い上げていくラストは、この1冊の末尾にふさわしいシーンだと思う。

 

 

 

 

・文庫化情報

「神童 天才 凡人」「廃墟の錬夢術師」「華麗なる独歩行」「過ぎ去った日々でなく」「錨のない船」「望郷 純情 奮闘」「十二人目の助六」「人魚は死んだ」「疾駆する野牛」「面白がる精神」「沈黙と焔の祭司」

 

「寵児」

 

「その木戸を」「オケラのカーニバル」「帝」「帰郷」

 

「鏡の調書」

 

「秋のテープ」

 

 

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