呉明益『眠りの航路』

「近ごろよく考えるんです。自分の父親がどうやって自分の夢に向き合っていたのか。でも、想像できないんです。ぼくにとって戦争は本当に遠くて、ぼんやりとしているから」(p.231)

 

呉明益の長編デビュー作『眠りの航路』(訳・倉本知明、白水社エクス・リブリス)を読んだ。のちに書かれた『歩道橋の魔術師』や『自転車泥棒』とも重なるところがあってひきこまれ、すぐに2周目をすることに。

 

眠りの航路 (エクス・リブリス)

数十年に一度だけ一斉に花を咲かせるというホウタクヤダケが開花した日、「ぼく」は友人とその花を見に行く。その日から「ぼく」は睡眠に異常をきたす。入眠と起床の時間が3時間ずつ後ろずれていき、生活のリズムがくるってしまう。そして夢を見なくなる。

並行して、失踪した父・三郎の物語が書かれている。三郎の少年時代は第二次世界大戦と重なる。自ら志願して台湾から日本へわたり、少年工として戦闘機の生産にたずさわる。台湾から船で日本に向かう場面から、断片的に配置されている。


これら断片と「ぼく」の睡眠異常はつながっている。

目を閉じれば、たくさんのものが見えてしまったからだ。(p.24)

ここまで書くと、ぼくは静かに目を覚ました。(p.36)

 

三郎の人生には、転機となる2つの終わりがある。終戦、商場の解体。戦時中は日本のために働いたが、戦後は「戦勝国」の国民として台湾に帰ってきた。分裂したアイデンティティを抱えたまま、中華商場にたどりつき修理工として暮らす。そして商場が解体された日、父は理由も告げずに失踪してしまう。

「ぼく」は生活リズムを回復すべく、睡眠の専門家のカウンセリングを受け、日本の先生を訪ねる。それは父の過去をたどるようでもある。その過程で、眠りと夢を取り戻していく。

 

ひとは見た夢を忘れていく。忘れないと現実と区別ができなくて困るから、という一節がある。過去の経験にも似たようなところがある。記憶が消えていくからこそ生きやすいということもある。しかしあまりにも強烈な体験は残り続ける。

何度も見てしまう夢、忘れられない経験と、父はどう向き合ったのか。いうまでもなく戦争のことだ。戦争を経験したあとで、父はどう生きたのか。それを父が語ることはなかった。

 

上の世代が語らないこと。同じようなテーマで、周囲の人から話を聞いたり資料を探すというスタイルもあり得る。しかし本作はそうしない。睡眠の異常として「見えてしまう」。この設定はどんな意味をもっているだろうと考えたくなる。

まず言えるのは、この方法はフィクションとしての性質を強める。それゆえ現実味は薄れるが、想像力を刺激する。

また、「ぼく」は父のことを積極的に調べようと思っていない。少なくとも最初は。受動的に、病として、ふだんは見えないものが見えてしまう。三郎の物語ではあるが、三郎個人の物語として閉じているわけではない。知らないうちに「ぼく」にも共有されていたが、いままでアクセスできなかったこととして書かれていると思う。

積極的にアクセスしよう、戦争について調べてみようという主張も感じない。それよりもただ、ふだんは見えてない物語が存在している、ということだけを強く訴えていると感じた。

それは、「ぼく」や三郎以外に、三郎の家にいたカメ、観音様、B29のパイロットなど。いろんな視点が登場することともつながる。さらには冒頭にでてくる竹の生態が象徴的だ。見えないところにとどまっていて、ときおり表に出てくるもの。個人(個体)的なことのようでありながら、奥深くでつながっている。それは誰にもアクセスできずにうもれているが、その固有の時間をとどめている。

 

 

 

kinob5.hatenablog.com