『統計の歴史』、『急に具合が悪くなる』

今年ほど、統計を意識させられる年もない。感染者数、陽性率、重症率、再生産数などの数字が毎日更新される。都道府県ごとのマップが作られて、時系列のグラフが作られる。初期に起こった、検査数と偽陽性をめぐる議論も、直観ではとらえにくい統計の話だった。

ここ最近、ずっと統計の存在感が増している。個人がスマホを手にし、ネットワークにつながり、生み出されたデータが分析される。計算能力の増大もともなって、統計データがさまざまな意思決定に関与している。

全盛期を迎えたといってもいい統計は、どんな歴史をもつのか。オリヴィエ・レイ『統計の歴史』では、主にヨーロッパで統計が定着していく様子をたどる。17~18世紀に基礎がつくられ、19世紀前半に急速に広まることになる。

統計の歴史

はじまりは、国を治めるための手段として人口を調査することだった。いま国は繁栄しているのか、そうではないのか。誰からどれだけ税を集めるのがよいのか。政府は国の現実を把握するため、調査の手を広げていく。このような調査は、公が市民の個人情報を把握するというプライバシーの問題の始まりでもあった。

当時、調査と計算によって問題を解決する機運が高まっていき、〈算術マニア〉を生み出したというのが面白かった。

奇妙なことに、彼らは、理論を構築しようとせずに、「飽きることなく、ひたすら数え、分類し、記録しつづけた。イギリスの優秀な頭脳が、国内の数か所で一時間ごとに観察された気温や風向きと風速、そして空模様を詳細に記録するためだけに使われたのだ。彼らの努力は何も生み出さなかった。何の役にも立たない記録を残しただけである」。彼らは観察と計算を過大評価していたのだろう。しかし、数字は理論的な説明があって初めて意味を持つのである。

この具体例が本当に役に立たないのかは疑問で、いま見たら面白いんじゃないかと思ってしまうが、言いたいことはよくわかる。このダメなビッグデータ感が昔からあったというのは興味深い。

 

19世紀前半に統計の爆発的な普及を迎える。その背景には、産業革命と政治革命がもたらした都市化による「個人の社会」の確立があったという。中間的な共同体が失われていくなかで、統計が新しい秩序をもたらす「国家の鏡」のような役割を果たした。統計が公表されるようになったのもこの時期で、国の全体像として共有された。


社会科学の基礎として発展してきた統計は、やがて自然科学の領域にも入っていく。初期の代表例としては、生物学の遺伝の研究と物理学の熱力学がある。ある個体や分子一つについては確実なことは言えないが、多数のサンプルが特定の確率分布でふるまうことを理論化した。

また、医学でも統計的アプローチの活用は広まり、天然痘ワクチンなどの成果をあげていく。しかし、当時の医学界では、統計に対する批判の方が多かった。その内容を要約すると、「患者は一人一人違うのに、病気を患者から切り離して「平均値」で治療することなどできない」、というものだ。これは一理ある。ただ統計が有用であることもまた確かで、医学の進歩とともに導入が進んでいった。

そのほか、文学にも言及があったのは印象的だった。文学と科学はある時期までかなり同質なものであったが、統計が広まって以降、対立を深めていったという。統計は集団を単純化し、全体像を示すことを得意としている。他方、文学は個人を詳細に描くことができるが、世界の断片にとどまる。これは医学で起こった対立と同じ形をしていると思う。

 

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『急に具合が悪くなる』は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡形式の本。宮野がガンを患い、「急に具合が悪くなるかもしれない」と医者に告げられたところから始まり、病の不確定性とリスクをめぐる問題を言語化していく。

急に具合が悪くなる

「急に具合が悪くなるかもしれない」。その言葉は衝撃と危機感をもたらす。そして、その後の行動は、悪い予感に拘束されてしまう。いままで通り仕事ができなくなるかもしれない。決まっていた予定は変更になるかもしれない。

「急に具合が悪くなるかもしれない」は、いつでも誰にでもあてはまる。持病が悪くなるかもしれないし、感染症にかかるかもしれない。あるいは事故にあうかもしれない。普段はリスクが低いと思って意識していないが、意識し始めたら人生が細分化されているように感じるという。 

たとえば、リスクを提示された私の人生は、ガンをほどほどに抑えつつこのままやっていける人生と、副作用に苦しみながらもなんとか生きていく人生、そして重篤な副作用で息も絶え絶えになる人生に分岐します。さらに、その先に見えてくるのは「急に具合が悪くなる」可能性と、そうでない可能性です。


不確定な状況のなかで、治療の選択をせまられる。提示される選択肢には、それぞれメリットとデメリットがある。統計的な情報はあるけれども、自分がどうなるのかはわからない。その難しさを、「次々とふりかかる<かもしれない>の中で身動きがとれなくなった」、と表現している。

エビデンスに基づいたリスク計算をして合理的な決断をする、というのが「正しい」選択だと考えられているが、そうそううまくできるものでもない。著者たちは、情報を精査して能動的な選択をするという考えとは違う方向を示す。

ほぼ無計画に戻ってきた京都で私はある病院と出会い、今後のケアの方向が形作られてゆくことになりました。それは、複数の選択肢を比べて合理的に決定したのではなく、たまたまの「出会い」をもとに「ここにしよう」という気持ちが自然に湧いてきた結果でした。

強調されているのは、偶然性と受動的な側面である。いわゆる「正しい」選択とは真逆ともいえる。

ここでいう偶然性とはなんだろう。選べないから、サイコロをふってランダムに決めようというのではない。偶然でつくられてきた自分の軌跡を確認するようなことだと解釈した。サイコロの例でいうなら、これまでに出た目を確かめることに近いと思う。

結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなどできません。では、何が選べるのか。この先、不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるか、それを問うことしかできません。そのなかで選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。

未来は不確定であるけれども、そもそも「いま」が「いま」のようであるのも偶然でしかない。そのうえでどんな自分ならよいのか、選ぶことで自分がうまれる。これは計算をするというのとは違って、物語をつくることに似ていると思った。

 

本書の往復書簡という形式自体も、偶然性を織り込んでいる。先の展開がどうなるか分からないなかで、長文の応答をする。語りにくい問題でも、お互いに受け入れて応答し、進んでいくという信頼が根底にあるように感じられた。また、当事者と非当事者の関わりかたという観点からも示唆をくれる。

  

統計の歴史

統計の歴史

 

 

急に具合が悪くなる

急に具合が悪くなる