〈沢木耕太郎ノンフィクション〉の第Ⅴ巻はスポーツ/長篇と題して、「クレイになれなかった男」、「一瞬の夏」、「リア」の3作を収録。1本の長篇とその前後の短めのエピソードといった構成で、ひとりのボクサーと共に走り続けた濃密な記録になっている。年齢的なタイミングもあり、この夏に読めたのは良かった。
「クレイになれなかった男」
初出:「調査情報」1973年9月号
カシアス内藤は不思議なボクサーだという。内藤のボクシングセンスは抜群である。体の動きも観察眼もトップクラス。しかし、何が何でも勝つという飢餓感が見られない。打てるところで打たなくなってしまう。ゆえに実力に対して中途半端な試合をする。なぜか。それはわからない。
内藤は20才でチャンピオンにもなったが、20代半ばになった当時はもう名前を聞かなくなっていた。それでもボクシングをやめずにいるさまに、同世代の沢木は妙に近しいものを感じ、東洋ミドル級タイトルマッチである柳済斗戦を韓国まで見に行った。ここでケリをつけるはずだった。だがその試合も中途半端に終わる。
その試合で内藤に燃えつきる瞬間は来なかった。その姿にいらだち、焦燥感にかられる。なにを期待していて韓国まで行き、なにを裏切られたのか。勝手に自己投影をしていただけなのか。ここでケリをつけると思っていたのは沢木だけで、内藤は違ったのかもしれない...。区切りがつけれない2人の序章。モハメッド・アリの昔のリングネーム「カシアス・クレイ」と『あしたのジョー』を重ねたタイトルが見事にはまる。
「燃えつきる」という言葉には、抗いがたい魅力がある。いまの活動を続けるべきかどうかを悩む若者にとっては特に。20代半ばでそんなに焦らなくても、といまなら思うが、そういう時期は確かにある。若手の活躍が目立つ領域ならなおさら。モチベーション高く続けられたらベスト。そうでなければせめて、なにも思い残すことなくやめられたらいいのに...。それにはきっかけが必要で、「燃えつきる」という体感は魅力的にうつる。
以前、ぼくはこんな風にいったことがある。人間には「燃えつきる」人間とそうでない人間の二つのタイプがある、と。
しかし、もっと正確にいわなくてはならない。人間には、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし「いつか」はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも……。
「一瞬の夏」
初出:朝日新聞夕刊 1980年3月17日~1981年5月9日
「クレイになれなかった男」よりも前まで時間をさかのぼり、カシアス内藤との出会いから5年ほどの時間軸で書かれた長篇。前作では触れられなかった、沢木自身の仕事に対する葛藤も描かれている。
だが、カシアス内藤が人を殴ることでしか自己を実現できないことに戸惑っていたように、私もまた人を描くことでしか自己を表現できないことに苛立っていたのは確かだった。しかも私には、文章を書いて食うための金を得る、という自分の仕事への深い違和感があった。それが自分の真の仕事だとはどうしても思えなかったのだ。人は誰でもそのような思いを抱きつつ、結局はダラダラとその仕事を続けて生きていく。そうと理解はしていても、この仕事が偽物ではないかという思いは抜けなかった。私は、ジャーナリズムというリングの中で、やはり戸惑いながらルポルタージュを書いている、四回戦ボーイのようなものだった。
そして沢木はカシアス内藤と初めて会い、韓国へ行き、「クレイになれなかった男」を書いた。
それから4年ほどの月日が経ち、飲み屋で内藤のカムバックを知った沢木は、久しぶりに会いに行く。沢木耕太郎30才、カシアス内藤29才。彼はもう一度チャンピオンを目指すべくトレーニングを再開していた。かつてはやりたがらなかったロードワークに励み、基礎からジムでやりなおす真剣さを見て、彼は本気なのだと確信する。沢木も内藤をチャンピオンにすることを夢見て、タイトルマッチを実現するために動く。その1年の記録。
前作よりも沢木自身のことが多く書かれている。このコレクションで読んできた中で最も多い。長篇だからかもしれないが、それだけが理由でもないだろう。もはや客観的に人物を描こうという文章ではなく、沢木が主人公といっても過言ではない。それは上記の違和感とも関係しているはずだ。
前半はいい調子で進んでいく。カシアス内藤、トレーナーのエディ、沢木の関係は良好で、同じ方向を向いている。内藤の仕上がりは年齢のハンデを上回って、ライバルを圧倒する。スパーリングも復帰一戦目も無難な動きを見せる。
物語の後半は、ボクシングの実力とは違うところでトラブルが続く。所属ジムのしがらみであったり、マッチメイキングがうまくいかなかったり。内藤のコンディションとは裏腹に、試合は延期が続いて気持ちのキープがむずかしくなる。金銭的にも余裕がなくなり、夜の仕事をはじめると、とたんに鍛えられた肉体が崩れていく...。
沢木はトラブル対応に奔走する。ジムの移籍交渉をとりまとめる。ひとりで韓国に行って柳とのタイトルマッチの契約交渉を進める。ときに少なくない額のポケットマネーを投じる。そんなことまでするのかと驚いたとともに、並々ならぬ覚悟を感じた。
前半のチームで駆け上がっていく高揚感と、後半の作り上げてきた大切なものが崩れてしまうやりきれなさ。もしトラブルなく試合ができていれば、と思わずにいられない。それを運だといって割り切るのもそう簡単ではない。1年に及ぶ賭けに見合う見返りはあったのだろうか。読んでいて、自分のことも振り返って考えてしまう。「いつか」はやってきたのだろうか。
「リア」
初出:内藤利朗『ラストファイト』(集英社、1981年9月)
「一瞬の夏」の伴走から1年後、久しぶりの再会の日のこと。その間、沢木は内藤から意識的に遠ざかっていた。「あいつは、この一年、うまく切り抜けることができたのだろうか」という気持ちで集合場所へ向かう。内藤は、妻と前年に生まれた娘を連れていた。娘の名は理亜だという。アリを逆さにした名前に、沢木はボクシングへの執着を感じてやや不安になるが、地道な生活を送る内藤は満足そうだった。
「一瞬の夏」で描かれたあの1年はなんだったのだろう、という気持ちが文章全体から感じ取れる。子どもの妊娠がわかったのは、あの1年の大事なタイミングだった。試合は延期がつづき、内藤はギリギリのところで経済状況とコンディションをキープしていたが、それは続かなかった。子どもができたことはその一因になった。もし、と考えてみてもしかたがない。これでよかったのだと思いつつ、苦い味を残す。
賭けるべき大事な時に賭けられず、結局なにひとつ手に入れられなかったと思っていた内藤が、最も確かなものを手にしていた。置き去りにされていたのは、むしろ私の方だったのかもしれないのだ。
・文庫化情報
「クレイになれなかった男」
「一瞬の夏」
「リア」
文庫が見つからなかったので初出を。