リチャード・パワーズ『惑う星』

リチャード・パワーズの新刊、『惑う星』(訳・木原善彦、新潮社)を読んだ。

惑う星

冒頭の1段落目はこんな風。

でも、僕らがそれを見つけるのは無理かもしれないってこと?私たちはテラスに望遠鏡を設置していた。晴れた秋の夜、アメリカ合衆国東部に残された最後の暗闇の縁。これほど良質の暗さはなかなか得がたく、これほど大量の闇が空を照らすこともめったにない。私たちは借りた山小屋を覆う木々の隙間に望遠鏡を向けた。ロビンは接眼レンズから目を離した。たぐいまれな能力を持った悲しい息子。九歳になろうとしているところだが、この世界とは折り合いが悪い。

ここを読むだけでぐっと引き込まれてしまう。最後まで読んだあとでまた読むと、少し印象も変わる。

 

以下、ストーリーの展開にふれるのでネタバレ注意。


宇宙生物学者のシーオと息子ロビンはふたりで暮らしている。NGOで動物愛護活動をしていたロビンの母アリッサは、すでに亡くなってしまった。シーオは宇宙の研究をしながら子育てをする。その1年ほどの物語だ。

 

シーオが取り組むのは、地球の外に生命はいるのかという問題。たくさんの星があるのに、いまだに生命は見つかっていない。親子の会話を中心に思索が進む。ロビンの言葉にはっとさせられることが何度もある。「パパ?それだけたくさんの住める場所があるなら、どこにも誰もいないのはどうしてなの?」。

天文学と子供時代との共通点は多い。どちらも長大な距離の旅を伴う。どちらも自分の理解を超えた事実を探求する。どちらも突拍子もない理論を打ち立て、可能性を無限に増幅させる。どちらも数週間ごとに鼻を折られる。どちらも行動の根底にあるのは無知。どちらも時間という魔法に魅了される。どちらも永遠に出発点に立っている。(p.88)

 

読み進めていくと、約30ページおきに惑星の話がでてくる。ロビンを寝かしつけるときに、シーオは惑星の物語を創作する。つかのま2人は遠い惑星に旅立ち、地質や生態を調べていく。これらの挿話にいくつもの文脈がつまっている。

おびただしい数の星があり、どこもそれぞれに様子が違う。記憶を共有する生物がいる星、生命の誕生と絶滅を繰り返す星、消えてしまった星。この星たちのありかたは、ひとりひとりの人間が住む世界にも重ねることができる。色や形も違い、互いに遠く離れている。

心配しなくていい、と死すべきさだめの円筒状生物が言った。”永遠”には二種類ある。私たちが知っている永遠は、もう一つよりもすばらしいものだ。(p.206)

1つしかないものが無数にあり、1度きりのことが何度も繰り返されるというタイプの永遠を考えているのかなと思う。作品を通底するテーマになっている。

 

 

ロビンは学校でのトラブルがつづき、心の病と診断される。ロビンの治療を求められるが、シーオとしては薬の服用は避けたい。そこで知人の神経科学者の実験に参加することになる。

その実験では脳波をトレーニングする。ロビンの脳波をfMRIでモニターし、生前のアリッサの脳波に近づくようにフィードバックをかける。すると、アリッサと共感したような感覚に満たされる。このトレーニングを続けていくと、ロビンのふるまいは変わっていく。

心が安定し、親子のやりとりにも聡明さをみせる。作中、ふたりがオーディオブックで聞く『アルジャーノンに花束を』と似たような展開をたどる。

ちがうのは、この物語の視点が父親にあるということ。トレーニングがうまくいって良かったという気持ちもあるが、自分以上にロビンとアリッサが通じ合っていることへの困惑もある。ロビンはますます動物愛護活動にはげむようになる。

 

 

この物語をつうじて、言葉による活動はどうにも旗色が悪い。ロビンが起こしたトラブル、動物愛護をうったえるデモ、次世代望遠鏡の研究予算審査。人を変えよう、人を動かそうとする言葉の無力さばかりが際立つ。現実でもそうなのだけど。


反対に、ロビンが見出す自然は美しく、あらゆる感覚に語りかけてくる。あるいはケプラー望遠鏡は、数多の惑星の信号を地球に伝える。fMRIによるトレーニングは、言葉のいらない世界でロビンと母親を結びつける。非言語的なものの方が心を動かしている。

 

自然も望遠鏡もfMRIも、すべてがダメになったとき、この物語の向かう結末は明るいものではない。


一方で、ストーリーを物語る言葉は、パワーズが書く文章(訳された表現)は素晴らしく、こちらの心をゆさぶってくる(これまでの作品からすれば、だいぶ簡素な文体になっているが)。読後しばらくしても、このギャップに戸惑っていた。言葉やフィクションのもつ力をどう考えたらいいのだろう...?

いやいや、これこそフィクションの力なのだと思い直す。ぼくたちはこの小説をまえに戸惑うことができる。望遠鏡がなくても、fMRIがなくても、新しい惑星をつくることができる。そこに降り立ってすみずみまで探索をすれば、子供は想像力を羽ばたかせ、良い夢をみることができる。それはすごい力だと思う。

 

 


思い出した作品


柞刈湯葉「人間たちの話」

短編。宇宙生物学者が子育てをするところが共通しているし、テーマも重なっている。1回か2回か、それが問題だ。

 

テッド・チャン「大いなる沈黙」

フェルミパラドックスへのアンサー。最近だと『三体』もあるけど、ここではこっちを挙げたい。これも短編。

 

小川哲『ゲームの王国』

カンボジアを舞台にしたSF長編。神経フィードバックをつかったゲームで、言語コミュニケーションの限界をのりこえようという試みが下巻にでてくる。

 

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