リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

今年のゴールデンウィークはどこかへでかけることもなく、1冊の本をじっくりと読んでいた。リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』(訳/森慎一郎、若島正 みすず書房)。待ちに待った日本語訳の刊行。850ページ二段組のボリュームにどっぷりとつかる、稀有な体験ができた。

黄金虫変奏曲

物語は、2組の男女の恋愛模様とレスラー博士の謎が中心になる。

ジャン・オデイが司書としてはたらく図書館にフランクリン・トッドがやってくる。ある男のことを調べてほしいという。スチュアート・レスラー、多くを語らない同僚。いまは情報処理の夜勤をしていて、昔は科学者だったらしい。調査を進める中で、ジャン、フランクリン、レスラーは親交を深めていく。

それが2年前。ジャンはレスラーの訃報をうけとり、出会った当時のことを記録する。それと並行して、若き日のレスラーが遺伝子の謎を研究し、ジャネット・コスと出会った年が描かれる。

 

とても長い本で、構成はかなり凝っているが、プロット自体はそこまで複雑じゃない。登場人物も多くないし、描かれている時間もこの厚さにしては短い。分厚さのわけは、物語の経過時間あたりの文章の密度が高いから、ということになる。そこが最大の魅力だ。

 

たとえば。どこから引用してもいいので、適当に開いたところから。レスラーの少年時代。

どんな一つのものでも、他のすべてのものを介して初めてそのものになる。生命とは結晶で、組み合わせだ。ひそかなシステム。まだ子供のときに、その謎を明かしてみないかと誘ってくる力を感じとること。さもなければそのパターンが、たとえ細胞が崩壊するときでも、隠された秩序を明かすことは決してない。レスラーはこの少年のことを憶えている。いかに彼がジェイムソン先生から西洋文明の授業を強奪し、安全パトロールの制度を鼻であしらい、「ビーグル号」とかいう船のことで熱弁をふるい、有煙炭/無煙炭についてのミセス・ラップ先生のとんでもない間違いを訂正したかを。母ですら、服を着るときに青色と茶色は組み合わせが悪いから絶対にやめておけと言う以外には、彼に何か教えることをすっかりあきらめていた。(p.239)

語り方はかなりユニーク。いままで出会ったことのない文章が読める。この小説全体を通底するテーマとして、音楽、分子遺伝学、図書館学があるが、それらの用語の比喩で日常を描いたりする。

それは多分に飛躍を含んでいるが、自由な連想が絶妙に心情を伝えたりする。なぜわかるのかはわからないが、思わず立ち止まり、本から目をあげて感じ入る時間が何度もあった。

知らない用語がでてきて、わからないときもあった。そのときは、逆に場面からその用語についての何かを知る。次に読んだときはどう思うだろう。音楽まわり疎いので、わかる人がうらやましい。

 

 

言葉で一度きりの現実を描くことは、原理的な困難を抱えている。一度きりであるということは、これまでの表現の反復では表せない。しかし、初めて使われる言葉は意味を伝えない。既存の言葉を新しいしかたで使って変換、翻訳するしかない。

意味はパターンをつくり、パターンから意味が読みだされる。しかし、パターンが意味をもつとは限らないし、意味があっても読み取れるとは限らない。暗号を解くには鍵がいる。意外な隠喩には、暗号が解けたときのような快感がある。

 

この小説において「翻訳」は重要な概念だ。それは言語を変換するというだけではなく、もっと広い意味で。文章を書くこと、絵画を描く、音楽を奏でる。すべて翻訳。

 

世界は翻訳でしかない。翻訳そのもの。ただし逆説的に、いわく言いがたくも、他のどこでもなくこの場所の翻訳。これらすべての変換作業――言葉をカンタータへ、風景を言葉へ――の目的は、オリジナルへの忠実さでもなければ(ただし忠実でなければ無価値)、目標言語における美しさでもない(ただし美しくなければ無駄)。ありとあらゆる翻訳――科学に費やした、美術史を離れた、図書館に恋した、この段落に閉じこめられた年月――の意味が、突如、同一のものになる。

 

翻訳とは、移したいという飢えとは、シェイクスピアをバントゥー語へ持ちこむという話ではない。バントゥー語をシェイクスピアに持ちこむのだ。自家製の文以外に、言語に何が言えるかを示すために。目指すべきは起点を拡張することじゃなく、目標の幅を広げること、それまで可能だった以上のものを含みこむこと。解読が成功すれば、正しい解決に行き当たれば――たとえ束の間の、試験的な、代替可能な、局地的なものでも――二つの拡張され高められた言語(アナロジーがアフリカの平原に順応すれば、シェイクスピアだって二度と元には戻れない)は、崩壊した塔の高さを指し返す三角測量の六分儀となり、不自由な訛りを、知が言うまでもなく達する場所へと導くのだ。(p.654)

これは作中の表現だけれど、この小説がまさにこの翻訳を体現している。「移したいという飢え」を感じる。

 

さらに「翻訳」は生物学の専門用語でもある。DNAのコードを転写したmRNAからアミノ酸、タンパク質が合成される過程を翻訳と呼ぶ。これを名付けた人はすごい。

 

レスラー博士はこの翻訳を研究していた。RNAの4文字から20種類のアミノ酸がどうやって指定されるか。遺伝子の暗号との格闘。そして、なぜレスラー博士は分子遺伝学の研究を離れたのか。この謎がずっと横たわっている。

 

 

とにかく文章が良い小説なので、ネタバレは面白さをほとんど損なわないが、ラストシーンは知らずに読めて本当に良かった。それぞれの過去への見事な応答であり、継承であり、変奏。2周目はまた違う目で楽しめる。