〈沢木耕太郎ノンフィクション〉の第8巻は紀行/長編。いよいよあと残り2巻というところで「深夜特急」の登場。単行本では3冊、文庫版では6冊のこの作品が、二段組700ページほどの1冊にまとまっている。2年前に文庫で読んだばかりだが、このたび分厚い本で再読した。巻末には「深夜特急ノート」と題された旅先で書いたノートからの抜粋もある。
「深夜特急」
初出:「産経新聞」1984年6月~1985年8月(単行本第一、二巻)、単行本第三巻は1992年10月書き下ろし
ある朝、目を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。(p.12)
インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスで行く。そういう旅を構想して「私」は日本を出発する。冒頭の引用は書き出しの部分で、デリーに滞在しているときの心情だ。実はデリーに着くのは本の半分くらいの位置なので、旅の中間地点でありつつ本来のスタート地点へと読者はいきなり連れていかれる。
日本からデリーへの航空券は途中2か所を経由できるというもので、まずは香港に立ち寄る。第二章で時間を戻して、また日本からスタートすることになるのだが、この書き出しの一文は日本を出たいという気持ちにも重なり、この旅のはじまりとして強い印象を残した。
なぜユーラシアなのか。それもなぜバスなのか。確かなことは自分でもわかっていなかった。日本を出ようと思った時、なぜかふとユーラシアを旅してみたいと思ってしまったのだ。(p.20)
立ち寄る場所があまりにも多いので、目次で振り返るとこんな感じ。香港からマレー半島を経由し、ユーラシア大陸を西に進んでいく。
- 第一章 朝の光 発端
- 第二章 黄金宮殿 香港
- 第三章 賽の踊り マカオ
- 第四章 メナムから マレー半島I
- 第五章 娼婦たちと野郎ども マレー半島Ⅱ
- 第六章 海の向こうに シンガポール
- 第七章 神の子らの家 インドI
- 第八章 雨が私を眠らせる カトマンズからの手紙
- 第九章 死の匂い インドⅡ
- 第十章 峠を越える シルクロードI
- 第十一章 柘榴と葡萄 シルクロードⅡ
- 第十二章 ペルシャの風 シルクロードⅢ
- 第十三章 使者として トルコ
- 第十四章 客人志願 ギリシャ
- 第十五章 絹と酒 地中海からの手紙
- 第十六章 ローマの休日 南ヨーロッパI
- 第十七章 果ての岬 南ヨーロッパⅡ
- 第十八章 飛光よ、飛光よ 終結
描かれているのは1973年ごろのことで、著者は26才だった。50年前に1人でこのルートの旅をすることの意味は、いまとは全然違うだろう。当然ながらスマホはないし、クレジットカードも、デジタルカメラも、ユーロもない。ガイドブックはあっただろうが、持って行っていない。
言葉もあまり通じないなかで、宿を探し、バスに乗り、人と交流する。よくぞこんな旅をしようと思い立ち、実際にやりきったなという感慨が強い。最初に読んだときは、そうした見たことのない世界に触れる面白さが大きかった。
再読しながら考えていたのは別のことだった。旅を文章に書くというのはどういうことだろうか。文章を読むことで旅を追体験することはできるのか。おそらくできはしない。だからこそ人は旅をするのだと思う。だとしたら紀行文は一体なにをしているのか。
旅を追体験することはできなくても、思考の流れを追うことはできる。それは旅そのものではないが、旅の重要な一部であり、紀行文はその記録だ。旅があって、文章が書かれる。そう思っていたが、実は逆もあるような気がしている。文章や思考を展開するために旅という発想法があり、まとめるために旅というレトリックがあるではないか。
文章は「私」の考えによって進んでいく。その進み方は自由なように思えるが、書き手の枠のなかで狭く深いところへと向かいがちだ。しかし旅先の出来事はそれまでの流れをさえぎり、別の方向へと思考をうながす。家でじっとしていてはそうはならない。旅はそうした飛躍をもたらしている。
なので旅の道中の思考は、論理ではとらえきれないところがある。ふとしたことで信念を変えたり、気に入っていた街を突然離れたりする。上で引用したような「思ってしまったのだ」ということで行動は決まっていく。
旅をしている間、思考はあちこちへ動き回る。それらの1つ1つは、互いに食い違うところもあるかもしれないが、個別には短いエッセイとして読むこともできるだろう。紀行文というレトリックはそのすべてを、1つの旅であるということを根拠にして1冊の本にまとめることを可能にしている。本の最初と最後で考えが変わったとしても、それは旅の効用そのものである、というように。そしてそこにこそ魅力が宿っている。1冊の本として再読することでよりその効果を感じた。
この作品の文章には、旅先の出来事と主観がうまく混じっている。作中の言葉でいえば、著者の「好奇心が摩耗」していないため、その面白さでこれだけの長文を飽きさせることなく読ませてしまう。
ある意味、この本はゲーム実況に似ていると言えるかもしれない。旅をプレイして、それを実況する。マカオでギャンブルに夢中になる場面はとりわけ印象的だが、これはゲーム実況そのものだ。
一・一・五の小。
これで元金の五ドルをようやくすったことになる。五ドルで充分遊ばせてもらったのだからそろそろ切り上げて帰ろう。そうは思うのだが、意志とは反対に体が言うことをきかない。推理し、賭け、結果を待つ。そんな単純なことがこれほど面白いとは思ってもいなかった。灯りがつく瞬間のゾクッとするような快感が、これ以上やると博奕の魔力に搦め取られてしまうかもしれないという危惧を抑え込んでしまった。
カラン、カランとサイコロのはねまわる音が聞こえてきた。私はポケットから十ドル札を引き出し、大に賭けた。
三・三・四の小。
小額の硬貨や紙幣はもうなかった。私はためらわずに百香港ドルをパタカに両替して小さくくずし、それを元にして本格的に賭けはじめた。大に賭けたり、小に賭けたり、勝ったり、負けたりしているうちに百パタカは一時間もしないうちに綺麗になくなってしまった。(p.92)
ほかにも、各地で何度となく繰り返される、宿や店での価格交渉にも似たところがあるし、作品全体もそのように読める。
ただゲーム実況ではゲーム画面と実況音声の区別がはっきりしているのに対し、紀行文のなかで旅と思考はどちらも同じ文章のなかに織り込まれている。どんなゲームをプレイしているのか明確なときもあれば、読者にとって、あるいは著者にとっても手探りのときもある。たとえば旅の目的を見失うときがそうだ。
さらにこのアナロジーを続けると、ゲーム実況にはゲームが面白い場合と実況が面白い場合があると思う。このゲームだったら誰がやってもそれなりに良いということもあれば、この人が実況すればどのゲームでも良いということもある。もちろん両方そろえばベストだ。
「深夜特急」は両方そろっているわけだが、一読目は前者の印象が強かったのに対し、再読した感想としては後者が強くなった。珍しいゲームをしているという驚きがありつつ、それを上回る実況のうまさに目がいく。この著者はどこに行ったとしても面白いものを書くだろう。それはこの本というより〈沢木耕太郎ノンフィクション〉を読んできたから思うことかもしれないが。
もしまた次に読むことがあったら、どんなことを考えるのだろう。そのときが楽しみだ。