〈沢木耕太郎ノンフィクション〉シリーズの4巻目。紀行/短篇で10作を収録している。短篇といっても読み応えのあるものばかり。オン・ザ・ボーダーのタイトル通りで、日本の国境付近あるいは海外の紀行文が並んでいる。その時、その場所だからこそ書かれた一回性が刻まれていて、行動力と好奇心に驚かされる。
「視えない共和国」
初出:「調査情報」1973年1~3月号
日本最西端の島、与那国島に2週間ほど滞在して書かれた紀行文。島の周辺であいついで起きている「密輸」や「不法上陸」の事件を知り、その奇妙さに興味をもったのが取材のきっかけだった。島の各地をめぐって、そこに住む人たちの話を聞いていく。島での生活、戦後のヤミ景気時代、首里王朝下時代の人頭税、島をでていく若者たち、農業と漁業、台湾と沖縄と日本との距離感。
冒頭におかれた事件の布石から遠回りするように、ふつうに旅をして、出会った人としゃべる。この話はどこへ向かうのだろうと思って読んでいたが、しだいにタイトルの意味がわかってくる。与那国と国境をはさんでとなりあう台湾は、ときに目視できるほど近く、歴史的に交易がさかんだった。沖縄本島よりもずっと近い。しかし戦後になって日本に「復帰」してからは国境の管理が厳しくなり、これまで通りの往来は「事件」になってしまう。地図に書かれた国境とは違う、意識の中の「国」の記憶が浮かび上がる。
それは、生きるための巧まざる「工夫」だったのかもしれない。沖縄の果てのこの島の、間近な海に国境線が引かれるなら、島は確かに果てのドンヅマリになるだろう。文字通り最果ての島になる。しかし、少なくとも意識の上で線が取り払われているとしたら、この島は決して最果てではない。台湾に、そして広くアジアに開かれた単なる島になる。もちろん中央ではないが、最果てでもない。沖縄本島や、九州や本州と変わらぬ、ひとつの島である。しかも、国境に捉われないだけ、その分だけ自由になっている。
「ロシアを望む岬」
初出:「文藝春秋」1974年1月号
日ソ共同声明が発表された翌日、根室半島の先端に位置するノサップ岬へと足を運ぶ。「ロシアを見たいと思っていた」というただそれだけの理由からだった。岬から見える北方領土はあまりに近く、日本の漁船があやまって境界をこえ、ときに拿捕されてしまうことに納得する。その夜、飲み屋で船乗りから話を聞くと、なんでも皆が北方領土返還を求めているわけではないらしい。「領土返還を願う悲劇の岬」といった報道からは見えてこない事情を追いかけていく。
次は北へ。ここにも建前と本音のグレーゾーンがある。御朱印船と呼ばれる船はロシア領に入っても拿捕されずに大漁で帰ってくる。どうやらロシアと通じているとうわさされる。ある場所では漁船の大量拿捕事件ののち、「安全操業」へと移行した。ソ連へ採取料を払って漁をするわけだが、それでも割りに合うどころか、豊かな漁場へ出れるため大きく儲けることができ、漁師の家がどんどん建っている。それに拿捕保険なるものまであり、毎月の掛金を払っていればロシアに捕まっているあいだ定額が得られる。もし領土返還されたら、漁場の管理がゆるくなり、海産物の供給過剰で値が崩れてしまうので、現状維持を願うとか。信じがたいこともあるが、報道される型通りではない、現場でしか見えてこない生き方が見える。
「六十セントの豪華な航海」
初出:「ウインズ」1976年1月号
沢木耕太郎が世界で一番好きな場所だという香港へ。『深夜特急』に描かれた、熱気につつまれた日々の記憶が残っているからだ。それから5年が経っている。5年ぶりに降り立った香港は何かが変わってしまっている。そして著者自身も変わった。旅費を切り詰める切実さはもうない。しかし5年前の記憶をなぞり、比較ばかりしている。思い立って安宿を引き払い、最高級ホテルへと移って別の楽しみを探すが・・・。
これは紀行文としてかなり珍しいタイプの文章かもしれない。前に行って良かった場所を再び訪れるが、なにかが欠けていて物足りない。ふつうそれを書くだろうか。前に行ったときのことだけで十分、と思うのも自然だろう。読んだ人も同じ経験をしたくなるような文章を目指すならそうなる。しかしこの文章はそうではない。二度同じ旅をすることはできないと痛感する。旅には再現性がない。だからこそ旅には価値があるのだと思う。
「キャパのパリ、あるいは長い一日」
初出:「流行通信オム」1989年3月号
写真家ロバート・キャパの伝記の翻訳という2年半がかりの仕事を終えて、彼が駆け出しの時代を過ごしたというパリを訪ねる。キャパゆかりの地を実際に見てみたいという動機がひとつ。さらに著者にとってもパリは「青春の地」であった。『深夜特急』の旅の終わり近くで、長めの滞在をしている。キャパの人生に思いをめぐらしながらパリを歩く。その1日の話。
パリに到着すると、あちこちでストライキをしている。両替も交通機関での移動もままならず困るかと思いきや、そんな旅先の不自由を懐かしみ楽しんでいる。キャパの「聖地めぐり」にしても、期待していた場所で拍子抜けしたり、なんでもなさそうなところで感動したり予想外のことが起きる。これも確かに再訪には違いないが、前におかれた「六十セントの豪華な航海」と好対照といえるかもしれない。同じ街を違う目で旅をする。1日の旅のなかで、キャパの人生の一場面が頭をよぎる。その二重の景色がそのまま文章になっている。タイトルの絶妙さが随一。
「記憶の樽」
初出:「ヴューズ」1997年8月号
ヨーロッパへ行く用事に合わせて、南スペインの街マラガへ向かう。20年以上前に一度訪れたことがあり、そのときに行った酒場を探しにいく。記憶に残っているのは情景だけで、店の名前はわからない。遊歩道のある広い通りにあったその店は、カウンターの奥に何十もの樽があった。バーテンが酒樽からワインを注ぎ、老人は貝をむいてレモンをかけて出してくれる。それが最高においしかった。その記憶だけを頼りに、マラガの街を探索する。
またまた再訪。わずかな記憶からひとつの店を探し当てる。酒の味はたしかに一致するが、貝をむく老人はもういない。あのときとは違う。しかし20年も経っているのだから、店が残っているだけでもラッキーかもしれない。そう自分を納得させるも、悲哀がこみあげてくる。
だが、実際に変化に直面することで、微かに残っていたかつての記憶が、このようにきれいに消えてしまうとは思っていなかった。マラガの記憶として残っていた「遊歩道のある広い道路」も「無数に酒樽の並んでいる酒場」も、現実の「中央通り」と「アンティグア・カサ・グラルディーア」を眼にした途端、霧散してしまった。いまとなっては、それらをどのように記憶していたかすら曖昧になってしまっている。
――失ってしまったのだな……。
私が感じていた悲哀を言葉にすればそういうことだったのかもしれない。
この二十年で、私は樽に仕込まれた記憶という名の酒を一滴残さずのみつくしてしまっていたのだ。
なにかを失う旅、というものもあるのだなとしみじみ思う。再訪ものが3つ続いた。それぞれ記憶との距離感が違っておもしろい。
「イルカ記」
初出:「別册文藝春秋」2002年3月号
NHKのクルーとともにアマゾンへ。いわゆるイゾラドと呼ばれる、文明との接触がない部族たちの番組をつくるにあたって、現地で部族とのコンタクトをしているポスエロ氏に会いにいく。船で河をのぼっていくあいだ、現地の文化にどっぷりとつかる。ポスエロ氏へのインタビューからは、イゾラドを保護する理由がみえてくる。
ポスエロ氏の経験は壮絶で、言葉を失った。30年ほど前、彼は文明と接触したばかりのイゾラドに会った。しばらくして彼らのあいだで病気が広まり、多数の死者がでた。土地を失い、文化が消え、言語がなくなった。それからイゾラドとは未接触であるべきだ、という考えのもと活動してきた。なぜ接触してしまうかといえば、彼らの土地に文明が求める資源があるから。なにもしないことは接触を招く。だから居住地を調査して、保護区をつくる必要がある。しかし困難は尽きない。調査で遭遇したイゾラドに、スタッフを殺されたこともあった。文明側の利権からも狙われる。それでも続けるのは、自然な状態を守ることがアマゾンの美である、という信念だった。
「墜落記」
初出:「文藝春秋」2002年1月号
NHKの番組で2度目のアマゾンへ。今度はイゾラドの調査に同行するはずだった。経由地のカナダへ向かう便に乗っている最中、9.11の同時多発テロの影響で足止めされてしまう。約1週間かけてブラジリアまでたどりつくと、ようやくセスナ機でイゾラドの調査飛行に出発する。しばらく熱帯雨林の上を飛んでいると、エンジンから燃料が漏れていることに気づく。引き返していくが、高度はどんどん下がる。もう片方のエンジンも不具合で、なすすべなく農場に墜落していく......。
タイトルに不穏なものを感じながら読みはじめたが、比喩ではなく本当に墜落した記録だった。機体は大破したが、幸運にも乗客に重傷者は出なかった。まさか落ちるわけないだろうという楽観から、本当に落ちることを悟ったあたりの緊迫感がすごい。それを克明に覚えている冷静さ、あるいはライター気質にも驚く。いくつかの偶然があったときに、それを結びつけて物語にしてしまう思考と、それに抵抗する思考の記録でもある。沢木は取材に対してこう答えた。「旅をしていればどんなことが起こっても不思議ではないと覚悟している。これもそうしたことのひとつに過ぎない」。いやはや。
「メコンの光」
初出:「フラウ」2002年9月10日号、9月24日号
ジャーナリスト近藤紘一の著作に影響をうけて、いつかは行ってみたかったというヴェトナムのホーチミンへ。近藤が滞在したホテル・マジェスティックに泊まる。そのホテル以外はとくに行先を決めず、気の向くままに街を歩いていく。食べ物、市場、あふれるバイクといった暮らしぶりに驚く。そして現地で見つけた1泊2日のメコンデルタのツアーに参加する。
着いた翌日、陽がのぼって町の人々が行き交う街を見た場面。
不意に、自分が透明人間になったような、宙に浮いたような、名前を失ってしまったような奇妙な感覚に襲われる。それは私の旅がようやくはじまったという徴なのだ。
誰も自分のことを知らないし、気にもしていない状況というのは、ふだんとは違う自分になれるようで旅の自由さを表している。これまでの作品よりプライベート感がありつつ、旅慣れした感じで、ストレートにこういう旅をしてみたいと思う内容だった。めったに参加しないというツアーでも、乗り合わせたいろんな国の人と交流して楽しそう。
「ヴェトナム縦断」
初出:「フラウ」2002年10月8日号、11月12日号
ふたたびベトナムの旅。ホーチミンからハノイへとバスで国道一号線を北上していく。そのルートにはオープン・ツアーというしくみがあり、一方向であれば途中の街で下車をしながら思い思いの旅行ができる。事前のプランは立てずに、おもしろそうなところで降りて探索する。
旅のスタイルは『深夜特急』に近い。まずホテルを探して荷物を置き、市場を歩きながらアンテナにひっかかる場所を探す。バイクタクシーや買い物のときに値切りの交渉をして、相場と町の雰囲気をつかむ。とはいえ当時のような金銭的な切迫感はなく、リゾートホテルに泊まったりしている。かといって余裕ということもなく、ブラジルで墜落したときの後遺症が残ったまま旅をしている。日本人がまだ誰も行ったことのないところへ行ってやろうという好奇心を感じる。レンタル自転車で夜道を走っているときに道に迷ったり、小林秀雄にそっくりな人に出会ったり。
「雨のハノイ」
初出:「フラウ」2002年12月24日号、2003年1月14日号
「ヴェトナム縦断」の旅の続き。ハノイに着いたあとのことはこちらに書かれている。成り行きまかせの旅は変わらず。それゆえ不運に見舞われることもしばしば。キャパが傑作を撮ったという現場を見に、少し離れた町まで出向く。ぎゅうぎゅうのバス、長距離のバイクタクシーで探し回るも、結局見つけることができず。疲れ果ててホテルに帰ろうとしたら、全然別の町へ行ってしまい、引き返すだけで一日が終わるなど。
前作からの続きで、ときどき旅のスタイルについて考えている。もうこんな若いころのようなハードな旅のしかたはやめて、年相応のゆったりとした旅行のほうがいいのではないか。ほかの旅行者の影響も受けながら、考えが揺れ動く。ヴェトナム旅行のあいだに読んでいたという、林芙美子『浮雲』の文脈が十分読み取れなかったのが惜しい。またいつかあらためて。
・文庫化情報
「視えない共和国」「ロシアを望む岬」
「六十セントの豪華な航海」
「キャパのパリ、あるいは長い一日」「記憶の樽」
「イルカ記」「墜落記」