沢木耕太郎ノンフィクションⅢ『時の廃墟』

沢木耕太郎ノンフィクション〉の第3巻は社会/短篇というテーマで11作を収録。これまでの2巻では、ある1人の人物に迫るものがほとんどだったが、この巻では社会、すなわち集団としての人物を描いている。各作品のタイトルもそれを反映しているが、全体的に明るい感じはせずずっしりと。読みながらいろんな世界へと入り込んでいける。

 

沢木耕太郎ノンフィクションIII 時の廃墟

 

 

 

「防人のブルース」

初出:「別冊潮 日本の将来 秋季号」1970年10月

自衛隊の若者にとって「生きがい」とは何か。自衛隊への取材の申し込みは拒否されてしまい、つてを求めて横須賀へと通う日々が始まる。電車のなかで出会った防大生との出会いから取材の糸口をつかみ、インタビューをとっていく。国を守るという使命が生きがいと言う人。安定を求めて入隊し生活に重点をおく人、仮の宿としてとらえ転職を考えている人。いろんな人の答えがあるが、著者は違和感を消せずにいた。

 

沢木耕太郎のデビュー作。いきなりハードなテーマに挑んでいる。インタビューの内容はしっかりありつつ、取材が難しいという状況そのものも織り込んで書く。その両方から感じ取れるのは、自衛隊と世間との距離感だ。誰のための国防なのか、という批判的視点につらぬかれている。しかし、どのような生きがいだったら著者は納得しただろうか。本人もそれを知りたくて取材したのだろうけど。

 

「この寂しき求道者の群れ」

初出:「展望」1971年9月号

アンダーグラウンド演劇の世界。大劇団や近代劇とは別の道へ。そんな志をもった演出家や俳優を取材する。特定の劇団にフォーカスするのではなく俯瞰的に。60年代に第一世代がつくった基盤から第二世代の若手がでてきたころ。俳優が意味を伝えるための記号になることを批判・拒否する。そうした作風には難解というイメージがついてくる。「時代への苛立ち」と「生活の困難さ」になんども遭遇することになる。

 

文中にでてきた「アングラ」の説明がなかなかいい。

アングラの定義は極めて困難だが、比喩的にいうなら「地上の光を断念〈拒否〉することによって新しい自由を得ようとする態度そのもの」だということになる。ここで「地上の光」とは、ルーティーン化した発想法といったほどの意味である。

書かれた当時は、少し前に前衛だったアングラ演劇に多くのフォロワーがでてきたという状況だろうか。読んでいると、祭りのあとのような寂しさを感じてしまう。タイトルの影響もあるとは思うが。明るい展望はあまり書かれていない。先鋭化していく活動は、どうしても持続性や大衆性とぶつかってしまう。

 

「灰色砂漠の漂流者たち」

初出:前半「月刊エコノミスト」1972年3月号、後半『資源文明はどこへいく』1975年10月

川崎の若年労働者を社会問題としてとりあげたルポルタージュ。多数の労働者へのインタビューを通じて、当時の状況を描き出す。どこも人手不足で、地方からの集団就職も多かった時代。人の流れは早く、3年以内に5割の人が転職していたという。いざ職場に来てみたら、仕事や待遇が聞いていたのとは違ったことも少なからずあった。しかしその不満は組織化されず、集団としての力をもつことはない。また公害も大きな問題となっていた。

 

取材を始めるにあたって、川崎の街を目的もなく1日歩き、見たものを書くということをしている。立ち食いそば、競馬場、工場群。街の雰囲気の描写が貴重な記録になっていると思う。僕も川崎を歩いたことがあるが、当然ながら全然違う。特に公害の様子に時代を感じる。もう半世紀も前だ。こういうものを読むと、昔は良かったなんてとても言えない。現代でこうしたものが書かれているなら読んでみたい。

 

「棄てられた女たちのユートピア

初出:「調査情報」1972年5月号

千葉県館山市に「かにた婦人の村」という長期入所型の婦人保護施設がある。牧師が売春婦のためのコロニーとしてつくりあげ、障害をもつ人も多く受け入れている。テレビのドキュメンタリー番組が取材に向かうと聞き、著者は同行を申し入れる。一週間ほど現地に滞在し、入居者と共に食事をとり仕事をした。

 

著者は、施設を立ち上げて維持してきたことの重さを感じながらも、この村で過ごすことは幸福なのだろうかと問う。その視点で、ある種の多様性のない空間であったり、能率とは別の考えでの仕事の様子をとらえている。調べてみると施設は存続しているようだ。もうひとつの視点として、テレビクルーの様子が書かれている。彼らの取材はうまくいっていない。取材対象と同化していく著者と、カメラを意識させる方法の対比はなかなか興味深い。

 

「屑の世界」

初出:「調査情報」1974年3月号

江戸川区瑞江にある仕切場・石本商店で働いてみたという記録。仕切場とは、段ボール、雑誌、新聞、銅線などの買い取りをしている。そうした屑をもってくる人は曳子と呼ばれる。いろんな人がやってきて、そう高くない金額と替えていく。そして店先におかれた一升瓶から酒を一杯だけ呑み、また仕事へと出ていく。

仕切場の主役は誰か?仕切屋でもなく曳子でもない。ハカリである。この目盛をひとつ動かしたいために、曳子は一丁よけいに歩き、仕切屋はハカリの台の埃を吹きとばす。ハカリをめぐる両者の攻防には、涙ぐましいものがある。

 

「なんでもないこと、なんでもない人」について書くことをテーマとしていたらしい。NHKの「ドキュメント72時間」を連想させる。期間は年末の半月ほどと思われる。ある期間、その場所にとどまってみて、ときおり人から話を聞く。人情的な話もあれば、シビアな経済の話もある。もう古いところもあるかもしれないが、モノがどのようにリサイクルされていくかを知れたりしておもしろい。

 

「シジフォスの四十日」

初出:「文藝春秋」1975年6月号

1975年の都知事選。現職の美濃部亮吉の再選が見込まれるなか、自民党対立候補選びに難航した。結局、衆議院議員だった石原慎太郎を党推薦で擁立する。石原陣営をメインに時系列で開票日の様子が進行し、間に選挙戦全体のポイントとなった局面を差しはさむ。開票が進んでいき、選挙区ごとの開票率と得票数に一喜一憂する。

 

都知事選のノンフィクションということで、当然ながら読者は結果を知っている前提になる。そのうえで石原慎太郎がどのように負けたのかを書いている。そこが読みどころ。自分は結果を知らずに読んでいたが、結局この選挙の争点がなんだったのかがわからなかった。政策や論点についての記載がほとんどない。これは書き方の問題というより、実際そうだったのだろうと想像する。候補者のふるまいや性格、政局的な話になっていくのはずっと変わらない。それ自体が不要とは思わないが。

 

「鼠たちの祭」

初出:「調査情報」1975年9月号

商品取引の世界に生きる相場師たち。たとえばこんなふう。板崎喜内人は若くして2億円を手に入れたが、1年ですべてを失い、1500万の借金を抱えた。夜逃げ同然で三重を発ち、大阪でうどん屋でもやろうと思っていた。しかし道に迷ってしまい、たどり着いた先に大阪穀物取引所があった。これまでの儲けも借金もここの相場だった。その偶然に思い直し、高利貸しから10万円を借り小豆を買い続けた。持ち金は2か月で3千万円になった。その後、毛糸相場で30億儲けたという。

 

すごい世界をのぞきこんだ気持ちになる。ここに出てくる人たちは、そのようにしか生きられないという業を感じる。とても真似できないし、真似したいとも思えない。うまくいった人は語り継がれるが、その周囲に沈んでいった人がどれほどいるだろう。生存者バイアスという言葉がよぎる。それでも一握りの報われた無謀さに魅力があることも否定できない。

 

「不敬列伝」

初出:「潮」1976年6月号

戦前の日本には、皇族に対して不敬をはたらいた罪として不敬罪があった。戦後の法改正によって不敬罪は廃止されたが、それに相当するような事件はたびたび起きた。「見えない人間」としての天皇に対して、アクションを起こした犯人たちを取材している。プラカード事件、京大天皇事件、パレード投石事件、日光皇太子夫妻襲撃事件、パチンコ狙撃事件など。不敬罪はなくなったが、実質的にはなくなっていない。

 

企画からしてすさまじい。犯人たちの動機とその後の人生を掘り下げていき、価値判断をひかえたスタンスで書いている。生まれてこの方、天皇を狙った事件を聞いたことがないので時代のながれを感じる。なにかを訴えるべき相手が変わったのだろうか。戦争との距離もあるだろう。読んでいると否応なく、政治家を狙った事件のことが思い起こされる。

 

「おばあさんが死んだ」

初出:「文藝春秋」1976年6月号

身寄りのないひとりの老女が死んだ。栄養失調と老衰だった。ひっそりと暮らしていた部屋は手が付けられないほど荒れており、そのなかからミイラ化した兄の遺体と数冊のノートが見つかった。その奇妙な終末と、餓死寸前であったにもかかわらず他者を拒絶していた老女の言葉がひっかかる。隣人、家主、ケースワーカー、親族、元同僚などの取材を通して、老女の生き方をたどる。

 

たいへんな力作。なぜそのような死に方をしなければならなかったのか?なにを支えに生きていたのか?その問いに答えられる人はだれもいない状況で、手を尽くして迫っていく。その過程にはミステリ的なおもしろさがあるとともに、切実さがある。この作品が「人物」ではなく「社会」の巻に入っていることの意味を考えたい。

 

「奇妙な航海」

初出:「ブルータス」1985年12月1日号

妻が銃撃された事件を仕組んだのは、その夫だったのではないか。いわゆるロス疑惑の渦中にいた三浦義和に、とある偶然から関心をもちインタビューをすることになる。いつ逮捕されるかわからないという状況で、マスコミは日夜を問わず三浦を追い回す。ホテルの一室でセッティングされたインタビューは、何日もかけてじっくりと行われるはずだった。感じをつかむために、子どものころの話から聞いていく。しかし、テレビからはまもなく逮捕に踏み切るという報が流れ・・・。

 

冒頭、著者は三浦に関心がなかったとはっきり書いている。たまにこのパターンがある。どのタイミングでどんな角度から興味をもつのか。その視点がおもしろかったりする。これもそのひとつ。密着してからはスリリングな場面がつづく。三浦は黒幕かもしれないし、そうではないかもしれない。警察がすぐにでも部屋に入ってくるかもしれない。しかしまさかこんな結末が待っているとは。

 

「ハチヤさんの旅」

初出:「月刊たくさんのふしぎ」1987年5月号

養蜂家・石踊純昭は旅をする。鹿児島から北海道まで、半年をかけて日本列島を北上していく。季節ごとに花が咲く土地を訪れ、ミツバチにミツを集めてもらうためだ。巣箱に住んでいる数万匹のハチをトラックにのせていく。妻と次女も一緒に行くが、小学生になった長女は祖父母とお留守番。一家の旅、ミツバチの生態、養蜂家の仕事の苦労と喜びが描かれる。

 

子ども向けの雑誌への寄稿はめずらしい。ですます調で書いているのも新鮮にうつる。こういう文章だと、いつもの文体を抜きにして文章のうまさが際立つ。内容はノンフィクションのかたちをとりながら、かなり教育的で勉強になった。養蜂場の見学はしたことがあったけど、旅をしながら養蜂する転地養蜂というものを知らなかったし、ハチがミツの水分をとばして濃縮していることも初めて知った。

 

 

 

 

・文庫化情報

「防人のブルース」「この寂しき求道者の群れ」「灰色砂漠の漂流者たち」

 

「棄てられた女たちのユートピア「屑の世界」「鼠たちの祭」「不敬列伝」「おばあさんが死んだ」

 

 

「シジフォスの四十日」「奇妙な航海」

 

「ハチヤさんの旅」は文庫未収録?

 

 

 

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