『二つの文化と科学革命』、『科学で大切なことは本と映画で学んだ』

文系と理系の話で、いまの日本から離れたものをということで、C・P・スノー『二つの文化と科学革命』(訳/松井巻之助、みすず書房)を読んだ。この本は3部構成で、表題の講演、講演の反響を受けてのコメント、第三者の解説とならぶ。ボリュームにすると1:1:2くらいで、元の講演そのもの以上にその後の論争や文脈の整理にページが割かれている。

二つの文化と科学革命 新装版

「二つの文化と科学革命(一九五九年リード講演)」と題された第一部をざっくりと要約してみる。

  • 知的生活には文学的知識人と科学者という二つの文化があり、これらは分離・対立している。
  • 創造的な機会は二つの文化の間で生まれるため、その損失は大きな問題である。
  • 対立の争点で重要なのは産業革命や科学革命であり、これらを理解しなくては貧しい国になってしまうが、文学的知識人はこれらを理解できない。
  • 分離の原因は教育の専門化なので、教育のありかたを考え直す必要がある。

 
というように、いわゆる文系と理系の対立の話を国家レベルのスケールで語る。理系にとってかなり都合がいい書き方になっている。ここまで書くということは、当時は理系がそうとう不遇だったのかも、と思わされる。ソ連への言及もあるので、背景にはスプートニクの影響もうかがえる。

 

最近よく目にする論調とは明らかに違う。科学者の技術楽観論に倫理面から批判が入るという図式ではなく、むしろ理系の方が道徳的とされているのが新鮮だった。

道徳的な生活ということについては、現在の知的なグループのなかでは、おそらくもっとも健在でさえある。科学そのもののなかには、どこをとって見ても道徳的な成分があるのだ。そしてほとんどすべての科学者は道徳的な生活について、自分なりの判断を具えている。(p.15)

さすがに言いすぎだろう。それとも当時はそうだったの?と思って、よくよく読んでいくと、病気や飢餓などの問題に対して、科学は解決策を提供できるという文脈のよう。たしかにそういう面は重要で、コロナ以前にカウンター気味に進歩楽観論がでてきたこととつながるような気もするけど、あれはファクトの確認が大事だったわけで。


それに対して、文系の例にはあまりいいところがない。

それは簡単にいえばこうである、科学的文化に属する人びとを除いては、西欧の知識人は産業革命を理解しようと試みもしなければ望みもせず、またできもしなかった。ましてそれを受け入れるはずもなかった。知識人、とくに文学的知識人は生まれながらのラダイトだった。(p.23)

ラダイト(ラッダイト)は、産業革命のころの機械破壊運動のこと。「生まれながらのラダイト」はひどい。解決策として教育の改善を提案しているのに。解説に詳しく書かれているように、その後の論争で批判を浴びたというのもうなずける。



論争の盛り上がりをみると、文系と理系の対立について多くの人の関心事を言い当てた、という著者の振り返りは正しいのだろう。解説でも、講演の内容は議論としてはフェアではないが、文化間のコミュニケーションの問題提起としては結果的には成功という位置づけ。

 

読み終わって、文系と理系という議論が効果的な場面はかなり狭いのかな、という印象が強くなった。主語が大きすぎるので見落とすものがあまりに多い。

 

歴史的に距離があるものに、長めの解説が付されているのはありがたい。注目される議論はよくもわるくも単純化されることが多いし、リアルタイムではうまく相対化できなかったりするので。いま起きている論争をみるときも、後年になって解説がつくという視点があるといいかも。もう数日後には忘れられているかもしれないが。

 

 

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少し前に読んだ本に、渡辺政隆科学で大切なことは本と映画で学んだ』(みすず書房)がある。タイトルと表紙がよかったのでジャケ買いした。帯の背表紙部分に「サイエンスは文化」と書かれていたのが印象的で、ここには「サイエンスは文化と切り離されているとお考えかもしれませんが、そうではないですよ」というニュアンスが感じとれる。

科学で大切なことは本と映画で学んだ

収録されている文章は、本や映画の作品ガイドと科学エッセイのミックスといった感じ。ゆるいつなげかたでどんどん作品に言及していく。めずらしいスタイルだなと思ったら、書評や映画評をエッセイとして再構成したらしい。なるほど、とはいえ読み心地はとてもよい。

 
かなりの部分を作品の紹介に使っているが、その取り上げ方からサイエンスみを感じるし、著者の個性がでている 。たとえば、「空を見上げて」という一節。
土星が期待を裏切ることはめったにない」。占星術師を母にもった少年は、長じてそうつぶやくことになった。この一文に出合うだけでも、『ぼくはいつも星空を眺めていた』は読む価値のある本だ。
古来、星は人を魅了し、惑わしてきた。かのガリレオは、土星は三つの惑星をもっていると発表した。しかしその二年後、土星が両脇に携えていたはずの二個の星は消えていた。むろんそれは、土星は環で囲まれていて、角度によって環が見えにくくなったせいだった。しかし科学の知識が星空の魅力を削ぐことはない。(p.82)
 
裏庭に天体観測所を自作した作家の本の紹介からはじまり、雨の科学と文化史をつづった『雨の自然誌』、雲鑑賞好きが高じて上梓されたという『「雲」の楽しみ方』へと展開していく。
  
誰にも、雲にまつわる思い出が一つくらいはある。そのときに遭遇した気象現象を勝手にロマンチックに解釈するのもいいが、科学的な説明を知るのも悪くない。そのせいで、思い出がもっと輝くかもしれないではないか。(p.85)
 
 
 
最近、科学エッセイというジャンルが気になっている。気になりつつもその魅力がうまく言えなかったところへ、この本の最後に「あとがき――科学エッセイという試み」という文章があった。冒頭から引用してみる。
雪の科学者として知られた中谷宇吉郎は科学全般の普及にも力を入れ、「科学を文化向上の一要素として取り入れる場合には、広い意味での芸術の一部門として迎えた方が良い」(「科学と文学」より)との持論を展開していた。その手段の一つとしては、「科学的な考え方というものはどんなものであるのかということを、日常的な現象を切り口に味わい深く伝える」(「科学と社会」より)随筆(エッセイ)が有効であるとも。(p.217)
このほか湯川秀樹朝永振一郎寺田寅彦、スティーブン・ジェイ・グールドら文章から科学エッセイのありようを探っている。
 
論文や解説記事の目的は科学的知識を正しく伝えることだ。一方、科学エッセイの重心はそうではないように思う。もちろん多くは良い解説になっているが、「味わい深く」や「情緒」といったことも問題になる。
 
すると、科学エッセイの主眼は好奇心の喚起にありそうだ。「文学とは感情のハッキングである」(山本貴光文学問題(F+f)+』)という定義に照らせば、これはまぎれもなく文学といえる。そしてその感情的な部分は、科学コミュニケーションの基本になると思う。