小川哲『ゲームの王国』

ある作家の本を初めて読んで、この作品は好きかもしれないと思えたら、そのあとはいつも決まってこうだ。作者のことを調べて、ベテラン作家ならどこから読もうかと悩み、新人なら全部読もうと心に決める。興味はどんどん広がる。
 
自分にとって、小川哲『ゲームの王国』はまさにそういう本だった。
ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

 
ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

 
サロト・サル―後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子とされるソリヤ。貧村ロベーブレソンに生を享けた、天賦の智性を持つ神童のムイタック。皮肉な運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1975年のカンボジア、バタンバンで出会った。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺―百万人以上の生命を奪ったすべての不条理は、少女と少年を見つめながら進行する…あたかもゲームのように。
 
本の構成は、上下巻で群像劇。各章の最初に年、場所、視点人物が書いてある。

上巻は、1975年前後がメイン。主人公たちはまだ子供で、カンボジアの苦しい状況がひたすら描かれる。拷問されて、裏切って、嘘が連鎖し、みんな処刑されていく。悲惨。

下巻では、時間が飛んで21世紀。ソリヤは政治家に、ムイタックは教授になっている。政治状況は上巻ほどひどくはない。だが、賄賂や腐敗は根強く残っている。ソリヤは、ルールを決める側に立たない限りこの状況は変えられないという信念で国のトップを目指す。ムイタックは、脳波の研究およびゲームの開発をしている。
 
タイトルにもあるようにゲームが大きなテーマとしてある。しっかり定義されているわけではないが、重要なのは目標とルールがあること。そして、目標への最短距離を妨げるような制約やルールが課されていること。ゲームのモチーフが具体的にも抽象的にも使われている。
 
ルールを守りつつ敵を倒せればいいけれど、うまくいかない。そのときルールを破ってでも敵を倒すのか。感情的にはそうなることもある。しかし、その後はそれがルールになってしまい、天敵にルールを守らせることは難しくなる。ただでさえ難しいのに。なぜルールを守るべきなのかという前提がないとルールは機能しない。

そしてその前提を共有するのは恐ろしく難しい。特に目先の利益を優先するときには。囚人のジレンマがいい例。集合行為のジレンマを理解して乗り越えなければ、ルールの前提はつくられない。人間の思考には、そういったバイアスがある。
 
バイアスにつながる話で、ソリヤと側近の「人類史の最大の敵は何か」というやりとりが興味深い。ある人は独裁者だと答える。この物語を読んでいる人なら誰もがうなずきたくなる。

対するソリヤの答えは家族だ。理由は、家族という局所的な互恵関係が、国家というより大きな互恵関係の妨げになっているから。例えば世襲。能力ではなく、ただ親子というだけで権力が決まる。そこから抜け出るためのシステムがなんらかの選考システムだ。学歴や科挙みたいなもの。この意見はラディカルだが、ある種の本質をついていると思う。局所的な愛があるから功利的になれないということだと理解した。これもある種のバイアス。でも家族を捨てると、小さい集団をつくる手がかりさえ失われる可能性は大いにあると思う。
 
バイアスにどう立ち向かうか。ソリヤは政治家になった。ルールを設定するためだ。これはわかりやすい。一方、ムイタックは脳波を使った研究やゲームをしている。なぜか。

注目すべきは、脳波によって進行するゲームだ。例えば、楽しむことがルールに組み込まれているゲームがでてくる。脳波が楽しんでいるシグナルを出さないと、先に進めないゲーム。このように、特定の脳波でゲームの進行を管理する。そうすると、脳波を出すためにプレイヤーはあるタイプの想像をする。あるいは記憶を呼び出す。この想像と記憶の呼び出しは、本質的には区別できない。すると、偽の記憶を意図的にプレイヤーに植えつけられる。これはもしかしたら、ルールを設定するための前提を脳に植え付けるということを意味しているのでは・・?
 
現実を変えるために、ある人は政治家になり、ある人は脳科学者兼ゲームクリエイターになる。この対比の鮮やかさ。物語全体通して、カンボジアの歴史、ゲーム理論開発経済学、心理学の背景がうまく組み込まれていて(自分も確認できるほど詳しくはないが)、それがとても効果的だと感じた。さまざまな興味を掻き立てる。 簡潔で軽快な文体もいい。
 

 

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)