「時間への敬意」を描くということ――呉明益『自転車泥棒』を読んで

呉明益『自転車泥棒』(文春文庫、訳/天野健太郎

小説家で自転車マニアの「ぼく」が1台の自転車と再会する。それは父が乗っていたもので、20年前に父と一緒に行方がわからなくなっていた。自転車のたどった軌跡を追いかけながら、持ち主たちやその家族の物語を記録していく。

自転車泥棒 (文春文庫 コ 21-1)

あとがきで著者は次のように書いている。

この小説は「なつかしい」という感傷のためではなく、自分が経験していない時代とやり直しのできぬ人生への敬意によって書かれた。

また作中の「ぼく」がいうセリフもこれに呼応する。

「ほとんどの人は、時間をセンチメンタルの対象にするだけだ。彼らは時間を尊重することを知らない」

これを「時間への敬意」とも呼んでいる。夢中になって小説を読み終えて、まさにその通りだなと感じる。著者の狙い通りの傑作になっていると思う。

 

では「時間への敬意」を描くとは、具体的にはどういうことなのか。

そう聞かれると、口ごもってしまう。たとえばある人の物語を知り、その人への敬意をもつ。これは理解しやすい。一方で時間となると抽象的になってしまい、すぐにイメージできない。どんな話をつくっても時間は入り込んでくるし、それは具体的な何かの物語になってしまう。

 

というわけで、もう少し整理してみたい。


上記の2つの引用から考えるに、「時間への敬意」はノスタルジーと明確に区別されている。記憶にあることを懐かしむのではなく、自分とは無関係に見えることも敬意の対象に含まれているとみてよさそうだ。ブッカー国際賞の候補にもなったこの小説は、台湾以外の人にも届く普遍性をもっていると思う(日本も特殊な文脈のなかにあることは間違いないが)。

とはいえ、描かれているのはあくまでも個人的な話だ。この小説には、自転車やその持ち主の話をきっかけにして、自分の物語を思い切って打ち明ける、あるいはついつい話してしまうという場面が何度もでてくる。それぞれ迫力ある描写がなされる。それらがつながりあい、歴史と接続され、100年にもおよぶ重層的な物語が見えてくる。まるでヴィンテージ自転車のパーツを集め、組み上げるように。

壮大な物語に触れることで逆にわかるのは、本人にとって大切な経験であるほどめったに語られないということだ。たとえば、「ぼく」の父は何も言わずに家族の前からいなくなった。再会した自転車の持ち主は問合せのメールに答えず、しばらく自作の小説を返信してきた。「自分で語りたくない」といって、ふるさとに呼び出した人もいた。

 

こうしてみると、「ぼく」は偶然自転車に再会し、偶然持ち主たちの物語を垣間見ることができただけで、そうでなかった可能性は容易に想像される。ぼくたちは、無数に並走する「自転車」を通り過ぎていく。実際、父の自転車以外にもいくつも自転車が登場するが、そのほとんどのゆくえをたどることはできない(最後に見つかるもうひとつの自転車のエピソードは、また違うかたちで時間を表していて素晴らしい)。

 

「語られない価値」というモチーフはほかにも登場する。

父の自転車の情報をくれたアブーは古道具屋をやっている。そこには「ぼく」からすると価値のよくわからないものが集められている。しかし、アブーはすずしい顔でこう言う。

「いつかだれかが買うものだ。焦って値引きをする必要はない。パンを売るより千倍ほどの辛抱強さがあれば、十分だ」

「そしてある日、本当にこれを求めている人がやってきて見つけ出してくれる。ときにその人は、わざわざオレに、それが持っている本当の価値を教えてくれる」

古道具はなにも語らない。ただその価値をとどめてそこにある。だれかが持っていれば、それは鉄くずにならずすむ。


また動物たちの存在も印象的だ。この小説には、2頭のゾウをはじめ数多くの動物が人生と交錯する。もちろんなにも語らないが、それぞれに豊かな時間を生きていて、ときに重要なことを示してくれる。

 

大切な物語が語られているとは限らない。物語の強度と語りの偶然性。過ぎ去っていった時間、語られない価値に想いを馳せること。この境地に達したとき、読者の前に個別の対象をぬきにした「時間への敬意」が立ち現れるのではないか。