アセモグル&ロビンソン『自由の命運――国家、社会、そして狭い回廊』

自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊 上

前作『国家はなぜ衰退するのか』に続いて、たいへんな力作。前作では国家のもつ制度を包括的/収奪的という区分けで整理し、国家の繁栄とのかかわりを論じた。本書はその枠組みを発展させながら、人々の自由というテーマを扱っている。

 

本書の主張をシンプルに要約するなら、次のようになる。自由の実現には国家が必要で、その国家の力は社会と均衡している必要がある。このことを示すために、古今東西の豊富な事例が紹介される。この具体例の厚みが、本書の価値をぐっと高めているように思う。

 

自由はどのような条件で成り立つのか。それは国家と社会の力関係に注目し、リヴァイアサン(=中央集権的権力)の3つの形態という枠組みを提示している。 

  1. 不在のリヴァイアサン・・・国家が存在しない、あるいは力が弱い(ティヴ、レバノン
  2. 専横のリヴァイアサン・・・社会が国家の力を制御できない(中国、ロシア)
  3. 足枷のリヴァイアサン・・・国家と社会の力が均衡している(アメリカ、イギリス)

 

3つのうち「足枷のリヴァイアサン」のみが自由をもたらす。このような条件は自然に成り立つものではないし、必然性はどこにもない。ヨーロッパなど特定地域の歴史のなかで獲得されたものだ。

 

ここからわかるのは、「歴史の終わり」のように、国家のあり方が1つのかたちに収束する未来はありそうもない、ということだ。国家と社会の力関係はその地域の歴史に強く依存していて、むしろ国家は多様になるだろうと著者は見ている。

 

ではなぜ、ほかでもないヨーロッパで足枷のリヴァイアサンが生まれたのか。それは2つの要素が組み合わさったからだという。1つはゲルマン由来の民主的な組織。もう1つはローマ帝国由来の中央集権的な階級制度。ボトムアップトップダウン。対立する2つの制度が結びつき、妥協点を探り、バランスをとった。

 

国家の力と社会の力がうまく均衡すれば、お互いの力を高め合うことができる。しかし、バランスを崩すと「不在」や「専横」に傾き、自由は損なわれる。この難しい条件のメタファーとして、自由は”狭い回廊”のなかにしかない、と表現している。

 

専横のリヴァイアサンの下では、経済的な機会やインセンティブにかけるため継続的な成長は見込めない、というのが歴史的な見解のようだ。これが正しいとすれば、中国やインドの成長はどこかで行きづまることになる。実際にはどうなるか、すごく興味があるところ。 

 

個人的には、ポピュリズム大衆迎合主義)に関する考えが整理されてよかった。いままでポピュリズム大衆迎合だからよくないというのが、いまひとつ納得できていなかった(有権者の意見を代表してなにが悪いのだろう?)。けれど問題は、中央集権的権力/官僚/エリートを敵として、その重要性を見落としていることなのではないか。もちろん社会によるチェックは必要だが、国家の力が弱すぎても自由は失われてしまう。