少し昔のノンフィクションをあれこれ読んでいる。沢木耕太郎や山際淳司の作品を起点に探したときに、よく見る作家のひとりが金子達仁で、もうひとりが海老沢泰久だった。
海老沢泰久の作品は、「嫌われた男 西本聖」という短編だけ読んだことがあった。増田俊也が編んだスポーツノンフィクションのアンソロジー『肉体の鎮魂歌』に入っていて、この作家の文章をもっと読んでみたいと思った。
この前、旅行の途中で立ち寄ったブックオフ札幌南2条店で本棚をながめていると、海老沢の名前に目がとまった。『ただ栄光のために 堀内恒夫物語』と『F1 地上の夢』があったので両方買い、帰りの飛行機で『F1』を読み始めたら止まらなくなってしまった。
海老沢泰久『F1 地上の夢』は文庫版で500ページほどの長編で、1986年の雑誌連載をもとに翌年刊行された。1986年にホンダは初めてF1チャンピオンになった。その年を終着点として、1960年代から動き出したモータースポーツへの挑戦の軌跡が記されている。
1960年代初頭、本田技研工業はまだ二輪車メーカーだったが、四輪車への参入を決めるのと同時期にF1参戦を表明した。F1カーの心臓部といえるエンジンの開発者たちが本書の主人公である。
本田宗一郎は、自分の技術に対して絶対的な自信を持っており、その技術で良い製品をつくれば必ず成功すると信じていた。それは大正十一年に静岡県の高等小学校を卒業して、東京本郷の自動車修理工場に修業にはいったときからの信念であった。そしてその信念は、現在にいたるまでホンダのよき伝統として受けつがれていくのだが、本田宗一郎が普通の技術者とちょっとちがっていたのは、ただたんに良い製品をつくるだけでは満足しなかったことである。
本田宗一郎に文字どおり叩き上げられた久米是志や川本信彦は、口をそろえていっている。
「おやじさんは、人と同じものをつくるのを徹底していやがった。いつも独自のものをつくって、おれっちのつくったものはよそのとはちがうと誇示したがった」
つねに新しいものへの興味と冒険心に満ちあふれていたのである。 (p.31)
本田宗一郎の発想とスピードにくらいついていくエンジニアたちの開発現場がおもしろい。はじめはなにもかもが手探りで、エンジンを組んではテストを繰り返す。
ときに本田宗一郎が現場にやってきて、とんでもない要求をしてくる。いきなり水冷から空冷に切り替えろと指示をするところは驚いた。トップが現場を指揮する場面は、ウォルター・アイザックソンが書いたイーロン・マスクの評伝を思い出したりもした。
レースの日程が迫ってくる中でなんとかつくりあげたエンジンが、思いもよらぬトラブルでダメになることもある。車体やタイヤとの相性や、コースの特性もおおいに影響してくる。レギュレーションの変更もあるので、積み上げてきたノウハウを捨てて仕切り直すこともある。
困難はある。しかし、好きだからやる。宣伝のためでも技術を磨くためでもなく、夢を追いかける。
話の要約だけを聞いたら、よくある戦後日本の技術者のドキュメントと思っていたかもしれないが、ストーリー以上に文体が衝撃的だった。事実によって物語を描き出す、というノンフィクションのセオリーに忠実に、淡々と事実を積み重ねていく。その徹底ぶりがすごい。
事実によって語るといっても、著者の見解の見せ方は作品ごとに様々だ。たとえば、著者自身が作中に一人称で登場し、体験したことや考えたことを書く場合がある。あるいは、一人称として明示的に書かれなくても、著者の抱いた問いや考えを提示し、読者をひきつけることがよくある。
ノンフィクション作品には、そうした文章が事実とは違うレイヤーで含まれている。たとえばこんなふうに。
たったの「一球」が人生を変えてしまうことなんてありうるのだろうか。「一瞬」といいかえてもいい。
それは真夏の出来事だった。
夏でなければ起きなかったかもしれない。夏は時々、何かを狂わせてみたりするのだから。
八月十六日。晴れ。気温は30度をこえるはずだとウェザー・キャスターはいっていた。
これは山際淳司「八月のカクテル光線」の書き出しだ。冒頭から期待が高まるのは、著者の考えによるところが大きい。作者なりのアングルが作品の魅力に直結している。
対照的に『F1 地上の夢』は淡々と事実を書こうとしている。章の見出しはなく、数字だけで区切られる。著者を示す一人称はでてこないし、著者の見解も明示的に書かれることはない。
結果として、文末の表現が独特になっている。「」でくくられた引用部を除く地の文では、ほぼすべての文末が「た」「だ」「である」「いっている」「いう」の5種類で、なかでも「た」と「である」が圧倒的に多い。思わず数えてしまったが、この5種類以外は500ページの中で15か所しかない。
つまり、「かもしれない」とか「だろう」といった文末はほとんどない。一部あるのは登場人物の内面として書かれたところで、著者の考えではない。現在形もやらない。体言止めは2か所しかない。どれくらいが普通なのかはわからないが、これはかなり少ないと思う。
事実を書くだけならそれでいい。ではなぜ多くの作品でそうしないのかというと、読者のためだろう。文末が固定されると、文章が単調でつまらなくなるという懸念があるのかもしれない。それはたぶん正しい。
本作についてその懸念はどうなのかといえば、まったく気にならない。おもしろいし、読みやすい。実際には、著者の考えは「事実」のレイヤーにうまく溶け込んでいるように思う。
問いによって遠回りをしないので、テンポよく読みすすめることができる。テーマの有名さが手伝う部分はあるにしても、これはすごいことだと思う。
出来事を書いて、理由を書く。まるでレース中に起きたトラブルに対し、メカニックがてきぱきと原因を見つけて直すように、文章も論理的でスピード感がある。この文体は、エンジン開発の物語によく合っている。
登場人物の感情の動きに対して、著者の筆致は冷静で距離がとれている。しかし、この文体の徹底ぶりから、余計な演出はぬきにして(それもひとつの演出であることに違いはないが)、この物語をどうしても伝えたいという情熱を読み取ってしまう。
その情熱は華美なレトリックに託すのではなく、文章を積み重ねた作品全体として表現されるべきだと考えていたのではないか。最後の一文に達して、見事に完成していると思う。
