小川哲「最後の不良」、ヒース&ポター『反逆の神話』

小川哲の短編「最後の不良」を読んだ。『年刊SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』(創元SF文庫)収録。初出は、雑誌〈Pen〉のSF特集。

プロジェクト:シャーロック (年刊日本SF傑作選) (創元SF文庫)

どんな小説か 

物語の舞台は、MLS(ミニマル・ライフスタイル)社が起こしたムーブメントによって流行がなくなった世界。価値観の均一化が進んでいた。カルチャー誌〈Eraser〉編集者の桃山は雑誌の休刊をきっかけに辞表を提出すると、暴走族のバイクで走りだす。向かうのはMLS社。そこでは流行を取り戻すべく、抗議活動が行われている。意を決して来たものの、抗議にも違和感を覚えた桃山は、そのかたわらに元同僚を見つける。その後を追いながら社内に忍び込むと、そこは思わぬ光景が・・・という内容。流行という不思議なものの本質をとらえつつ、とても推進力のある小説だった。
 
書き出しはこんな風 
第二次世界大戦が終わり、日本ではヒッピーが流行し、DCブランドが流行し、コギャルが流行し、パンツの裾が細くなったり太くなったりした。女子の髪やスカートの丈が短くなったり長くなったりし、化粧が厚くなったり薄くなったりし、草食系男子や五郎丸が流行し、ノームコアと電気自動車が流行した。そして最後に「虚無」が流行した。 

バイクに乗っている主人公が、流行の功罪について思いを巡らすパートがおもしろい。

かつて人々は、「目立ちたい」と思っていた。目立つために他人と違う服装をして、他人と違う音楽を聴き、他人と違う映画を観た。 

流行の変化を追い続けることで、ある者は幅広い知識を持った。別の者は流行を追うことの虚しさに気づき、自分にとって本当に重要なものに目を向けた。

認めよう——流行を追いかける行為は、ある意味ではとても虚しい。時間も金も投資するのに、そのお祭りは長く続かない。

しかし、そうやって半ば暴力的に規範となる文化を取り入れることによって、それまで見えてこなかったものが見えてくるのだ。

 
価値観が均一になっていく悲しさ、差異を求める消費のむなしさのなかで、多様な文化への憧憬がこみあげてくる。誰しも思い当たる節があるんじゃないかと思う。いろいろな文化に触れることで、ようやく自分の好きなものがわかったり、文化に触れる理由が、目立ちたいからではなく、好きだからに変わったり。
 
流行に踊らされるという表現があって、確かにむなしく思えるけど、いくらかは結果論のような気がしてしまう。これ買わなくてもよかったなと思ったとしても、買った当時は違ったわけで。流行との関係で自分の立ち位置が決まってたような時期もあったなぁとか思い出す。*1 
 
これSFなの?と思った人は、著者インタビューを読んでほしい。*2 極端な状況を設定し、現在の問題を拡大して取り上げるという方法論。これはSFのひとつの定義かもしれない(もちろん唯一ではない)。小川哲の作品を見ていると、この方法で書かれているのがよくわかる。本作についても同様。流行の消滅というのは極端ではあるものの、それを企業が主導しているところが現代風。IT企業がつくりだすディストピアを描いたデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』と似たものを感じる。
 

流行と不良

この小説と合わせて読みたいのが、ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』。副題は「カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」で、カウンターカルチャーは無意味どころか害悪ですらあると述べた本。その政治史についての論証もおもしろいが、ここではおく。注目したいのは、消費主義に反抗するようなそぶりをみせるカウンターカルチャーが実は流行をけん引し、消費主義の原動力になってきたことについて。
 

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 
まずこの本では、物的財と局地財という対となる概念を使っている。二つの違いは、生産力によって数量を増やせるか。たとえば、物的財にあたる食料などは農地を広げれば数量を増やすことができる。一方、局地財である一等地には限りがある。みんながその価値を享受できるかを考えるとわかりやすい。みんなが食事をすることはできるが、みんなが一等地に住むことはできない(一等地と呼ばれているエリアにみんなが住んだら、そこはもはや一等地ではない)。ただし、食料でも数量限定なら局地財になる。この区別は、他者とは無関係に価値を享受できるか、としてもよさそう。日本の歴史的には、戦後まもなくは物的財が足りない状態が続くが、物的財が満ち足りたとき人々の関心は局地財に向いていく。
 
みんなが局地財を追い求めるとどうなるか。例えば、ブランド品。かっこいいでも、かわいいでもいいけど、その反対には必ずダサいがある。全員がかっこいいということは、ありえない。みんながブランド品を持っていたら差がつかない。よって、よりハイレベルなブランドへ関心は向かう。また、流行は移り変わり、競争が続く。このような消費のあり方を競争的消費とよんでいる。これを局地財を奪い合う集合行為の問題(ゼロサムゲーム)としてとらえ、発言力のために軍備強化をし合う軍拡競争(!)に例えている。*3
 
こうしてみると、流行なき世界へ抵抗する人物として、不良がでてくることの意味がよく分かる。つまり、不良という地位は流行の最先端に位置する局地財だ。全員が不良になることはできない。全員が同じ服装をしたらそれが普通になってしまう。なので、真似されたなら、さらなる不良らしさを求めることになる。この競争はとまらない。これは流行が生まれる原理と同じだ。そのトップを走る不良は流行の消滅に抵抗せざるをえない。流行がなくなったら、不良という地位をほしいままにできるともいえるが、だれも憧れない。競争的消費がアイデンティティになっていると、その世界はつらい...。
 

流行がない世界って何が悪いの?

暴走族の格好をして不良心を燃やす主人公にとって、みんなと似たような服をきているのは耐えられないし、そんな社会に違和感がある。でも、どう批判する?みんなが自由に選んだ結果では?
 
注意しなければいけないのは、秩序=従順=不自由、無秩序=反抗=自由と短絡してしまうことだ。そのような思考に至る感覚はわからなくもないが、『反逆の神話』では徹底的に批判されている。これはファシズムのトラウマではないか、と著者らは指摘している。秩序を保つためのルールは自由を制限する。これは事実。だがルールが存在しないと、その自由さえも手放す結果になる。なんの規制もない漁場を考えてみてほしい。漁師は競争相手に取られる前にできるだけ取ろうとするため、急速に水産資源が枯渇し全員が損をするという、コモンズの悲劇が典型的な例だ。課題は、ルールを良いものにすることだけ。
 
思わずルールと書いてしまったが、「最後の不良」では、流行が法律によって禁じられているわけではない。企業のキャンペーンでしかない。そんなこと起こりうるのかという疑問はあるが、このような均一化への違和感や批判のしにくさは、現在に通じるものがある。GAFA*4と呼ばれるプラットフォーム企業のことがすぐにでも思い浮かぶ。
 
主人公の察知した違和感はなんとなくわかるものの、実際どう考えたらいいのか判然としない。消費者の選択によって、ライフスタイルが均一化されている。みんな好きなように暮らせばいい。以上終わりで、一見なんの問題もないようにも思える。この違和感の根源には、みんなが好きなものはバラバラで、それなりに目立ちたいに違いないという考えがある。でも根拠はないし、みんながそうだからといって主人公の行動が制約されるわけでもないし、むしろ目立つのは容易だ。不良仲間がいなくてつまんないといってるのとどう違うのか。それはもはや社会の問題ではない気がする。
 
流行があった方がいいのか、これからもあり続けるのか。『反逆の神話』の議論を通過してみると、「最後の不良」はますます興味深い。
 
反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

 

*1:モンハンもってないとか、mixiやらないは、なかなか肩身が狭かった

*2:新進SF作家・小川哲が、Pen最新号「SF絶対主義。」掲載の書き下ろし小説『最後の不良』を解き明かします。 | Feature | Pen Online 

*3:この比喩どうなんだろう。言いたいことはわかるけど、実情にあっているのかわからない。自分の高校は私服だったけど、まったく気づかなかった...。これにからめて、制服のメリットを主張したりもしてる。

*4:Google, Apple, Facebook, Amazon