伊藤亜紗『どもる体』

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

はじめに

しゃべることがあまり得意ではない僕は、『どもる体』の序章を読んでいて、ハッとした。しゃべるときの体や各器官の動きについて語られていて、しゃべること=言葉選びという等式をつくってしまっていたことに気づいたからだ。当たり前すぎて見落としていた視点だった。

この本はどもりに注目し、しゃべることの身体運動としての側面にせまる。どもりとは、思ったのとは違う仕方で言葉が体からでてくること。吃音ともいう。現象としての吃音をフラットに観察していくと、その先に見えてくるのは、誰にでもあてはまる”ままならない身体”の姿である。

 どもりの変化:対処法が症状に

どもりの具体的な症状は、3段階で整理されている(もちろん個人差はあることに留意)。はじめに見られるのは、「連発」である。「たまご」と言いたいときに、「たたたまご」となってしまう。次に、この連発を回避しようとして、現れるのが「難発」である。これは何も言えずに止まってしまう症状をさす。さらに難発を回避しようとして、「言い換え」がくる。ある単語の難発を予期して、別の言葉で言い換える。体を裏切ることで難発の緊張を回避する。
 
連発から難発へ、さらに言い換えと移行する。ここでのポイントは、この移行は本人の意志とは別だということ。
難発は、連発に対する対処法として生まれていますが、当事者には「連発にならないように工夫しよう」などという自覚はありません。特定の語が来ると、「体がおのずと緊張して言葉が出るのを妨げる」という出来事が起こるのであって、もはや「生理的エラー」と感じられる。つまり工夫が自動化しているのです。
工夫が自動化した結果、対処法が症状になるというところが興味深い。「工夫の誤動作」とも言っていて、意図と体の関係が入り組んだものになっていることがよくわかる。

歌うときはどもらない!?

本書の後半部分では、どもりと歌の関係からリズム論へ進んでいく。ここがとても面白かった。吃音の人でも歌うときはどもらない。著者の取材範囲では全員に該当したらしい。なぜか。普通の会話と違って、歌にはリズムがある。ここでいうリズムとは「変化を含んだ反復」のことで、その特徴をこう表現している。
違うけど同じ、同じだけど違う。この相反する特徴をあわせ持つことがリズムの特徴です。つまり、リズム的反復とは事細かに細部を指定する規則でなく、異なるものをざっくりと束ねる寛容性を持った規則なのです。
現実そのものは、一瞬一瞬が新しく、どうなるか分からない予測不可能性をはらんでいます。しかしリズムにノっているあいだは、その新しさ、つまり「過去との違い」が「過去との類似性」に飲み込まれるような形で克服される。現在の意味が過去によって枠づけされ、新しさもそこに回収されてしまう。 
リズムが規則・パターンを生み出すことで、複雑さがなくなり、運動が安定する。どもりとの関係でいえば、前に発した言葉と同じようにして次の言葉を発することで、なめらかにつなげていくことができる。
 
話し出すときの「えーっと」や「うーん」などの前置き(=フィラー)や話しているときの身振り手振り(=随伴運動)も同じ文脈で理解することができる。一般的にこれらはためらいの表れ、内容の指示として受け取られるが、しゃべりの運動を安定させる側面もある、という。これは自分の実感ともあう。
 
また、ラッパーをみるとよくわかるのではないか。リズミカルなビート、体の動き、フィラー的な発声など、かなり共通する部分があると思う。ライムスターの宇多丸は、体をしばりつけられた状態ではラップできない、と言っていた。著者とラッパーの対談などあれば、ぜひ見てみたい。
 

ノっているのか、乗っ取られているのか

リズムにノっているとき、人はどういう状態にあるのか。さらに踏み込んで、こう表現している。
自分の運動の主導権が、自分でないものに一部明け渡されています。「すでにあるパターン」という他者を自分の中に招き入れ、それとともに運動する。自分の運動を構築するという仕事を、部分的に「パターン」にアウトソーシングしている。
この状態では、意識的でも無意識的でもない状態が生まれていて、意図と体の関係も組み替えられている。
「〇〇と言いたい」という意図と、それを実行する体が、パターンという第三項によって媒介されている。それによって、緊張を生みかねない、意図が体を支配するような命令的な関係が回避されていると考えられます。
パターンを取り入れることで、どもらなくなる。ならば、この方法を使えば吃音は解消されるのでは、と思ってしまうが、吃音当事者にとってこの方法は実践的でない。その理由は、リズムを刻んで話したときに与える印象の問題だけではなく、自分の話がつまらなくなるからだ、と。
 
リズムに合わせて話すと、その内容もリズムに引きずられてしまう。つまり、パターン化された話し方によって、話す内容もパターン化してしまうということ。ここに著者は「ノる」ことが「乗っ取られる」へ反転する危険性を見ている。再びラップの例になるが、MCバトルにおいて即興でビートや韻に合わせるために、言う必要のないことを言ってしまう現象を思い出す。あと、政治的な場面で使われる音楽にも思いを巡らすなど。
 
パターン化を進めて「乗っ取られる」ことは「人間の機械化」につながる。しかし考えてみれば、パターンの学習は言葉を話している誰もがやっていることだ。意識されていないだけで、生まれたときからずっと。なので、パターンなしにも生きていけない。
 
「ノる」と「乗っ取られる」のせめぎあい、バランスのなかでこのままならない身体に向き合っていくしかない。しゃべることの運動としての側面からリズム論、身体論へ。とても刺激的な読書だった。 
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

蛇足

僕の現実逃避術として、ラップを聞きながら、ひたすらスパイダーソリティア(2色)をやるというのがある。なんでこんなことを書いたかというと、この本を読んで、ようやくこれで現実逃避できる理由がわかったから。つまり、これは変化を含んだ反復であり、思考をリズムにあずけることができる。
まず、ラップのビートは反復性が強い。そして、スパイダーソリティアのやり方は、あらかじめつくったルールに従ってカードを動かすだけ。まさに思考を手放し、パターンにあずける感覚。そこにはある種の快楽性がある。ゲームの難易度が1色でも4色でもなく、2色というのもポイント。僕のつくったルールで2色をプレイすると、およそ60%の確率でクリアできる。このバランスが絶妙で、ほどよく次のゲームへと誘ってくる。 
 
この没入感、なんかに似てるなぁと思っていて、思い当たったのがマラソン。特にコースも後半にさしかかり、体が疲れてきたころ。もう何も考えずに、ただただ足を前にだす。心拍と呼吸と足音のリズムにのって。あのときにも思考を手放す感覚がある。これもどこか快感に近い。でもずっとは続かない。疲れすぎると、もうリズムにノることはできない。
 
この感覚わかる人いるのかなぁ。。というか、書いていてリズムゲームすれば良くねってなった。。