『灼熱』、『ニュースの未来』

年末年始に読んだ本のことを書いてみる。

 

ひとつは小説、葉真中顕『灼熱』(新潮社)。舞台は第二次世界大戦期のブラジル日本人殖民地。2人の少年の人生を中心に、戦場から離れた地での混乱を描く。トキオはブラジルで地主の子供として生まれ、村で指導的な家族として尊敬を集める。勇は沖縄で生まれ、大阪でつらい日々をすごしたのち、家族とともにブラジルに来て働きはじめる。トキオと勇は親友であり、ライバルであった。

灼熱

 
しかし戦争が始まると、2人の道がわかれる。薄荷をつくり、アメリカに輸出するトキオの家は、敵国を支援する「敵性産業」として攻撃される。勇はためらいながらも、トキオに秘密で攻撃する側につく。ここは戦場ではないがゆえに、戦争にいけないうしろめたさから正義心が過熱する。結果、トキオは村にいられなくなり、一家で引っ越すことになる。
 
玉音放送以降、村を離れたトキオは日本が負けたという認識をもち、その先を考える。一方で、勇を含めた村の住民は戦争に負けたことを認めず、日本が勝ったと信じている。負けたと言う人達に対し「デマだ、国の尊厳を貶めるな」と反発する。実際にこういう考えはむしろ多数派で、いわゆる「ブラジル勝ち負け抗争」は50年代まで続いたという。全然知らなかった。

 

別の党派に分かれた2人は直接ぶつかりたくはないと思いながらも、いよいよ状況がそれを許さなくなる。対話を試みるもうまくいかず、なにを伝えてもまともに受け止められない。すべてデマということになり、敵対心はより増していく。上から目線で諭すという態度も気分を害する。分断は深まり、やがて暴力のなかに巻き込まれていく。
 
結末は伏せるが、ここまででも今日的な状況をみることができる。一次情報がうまくとれない環境と愛国心などの尊厳があいまって、情報の受け取り方が党派的になっていき、分断を深めていく。なにが正しいのかよりも、なにを信じたいのかに傾くところがうまく書かれている。
 

いまの立場からみると、そんな嘘に騙されるなんてと思ってしまうが、読めば読むほど自分も信じるかもしれないと思った。実際にその立場に置かれたらどうだろうかと考えると、とても自信がない。

 

なにもないところにフェイクが来るんじゃなくて、それまでの人生がある。自分のアイデンティティがあって、人間関係がある。その全体で人は動いていて、単純化してしまうと見えなくなるものがあまりに多い。

 

読みながら、事実をベースにした長い小説の意味を考えていた。単行本で664ページ。文章のリーダビリティは高く、長さは苦にならなかった。やはりこのボリュームを読むことは要約で代替できないし、この読書体験にはこれだけの長文が必要だと感じる。

 

 

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もう1冊は、石戸諭『ニュースの未来』(光文社新書)。ニュースをめぐる状況を概観し、良いニュースとは何かを考える本。メインの想定読者はニュースの書き手や発信者だとは思うが、そうでなくてもおもしろく読めた。

ニュースの未来 (光文社新書)

第一章の冒頭でガブリエル・ガルシア=マルケスをひいて、魔術的リアリズムの話からはじまるのがユニーク。幻想的な世界を異様に細かく描写することで、リアリティを生みだす書き方。これはもともとジャーナリズムの方法を小説に取り入れたものだという。

 

しかし、この方法を悪用すればフェイクをもっともらしくする効果ももつ。実際、細かい描写によってつくられた虚偽の記事がピュリッツァー賞をとるという事件も起きたらしい。リアリティが人に訴える力はそれほど強い。

 

著者はフェイクニュースに対して、ファクトチェックの意義を認めつつも、つきつめると重要なのは「良いニュースを創ること」だと書いているのが印象的。

 

 

かたや、ニュースはどんなふうに読まれているか。そこには内容の正しさとは別の力学がはたらいている。

人が積極的にシェアされる情報は、自分がもともと持っていた信条や価値観、意見に合致しているものであることも明らかになっています。陰謀論を支持する人たちに「その情報は虚偽である。根拠は……」と指摘したらどうなるか。彼らは「事実は違ったのか」と驚き、考えをあらためるかと言えばそうではありませんでした。(p.98)

 

一つの声を主張するニュースはいかに根拠に基づき、科学的に正しい内容だったとしても、対立する側には届かずに、内輪の結束を固める効果をもたらして終わります。逆に言えば、対立する側はよくわからない存在となり、分断は深まっていくのです。こうした記事を良いニュースとは言えません。(p.100)

 

一面的なものほどシェアされて、ページビューも稼げるが、分断が深まるという構図が見える。内輪の結束を固めたい人もくるし、金を稼ぎたい人もくる。

 

党派を超えて長く読まれる記事は、ページビュー競争とは別のやりかたを考える必要がある。そこで参照しているのが、沢木耕太郎を筆頭とするノンフィクション作家がつくりあげてきたニュー・ジャーナリズムの手法だ。

ニュー・ジャーナリズムを特徴づける一つの方向は、「『全体』への意志と『細部』への執着」(沢木)です。(...) 一人の人物へと接近しながら、大きな世界をすべてとらえようとしているのです。(p.182)

 

気になるのは、リアリティを持ちながら多面的な物語をつむぐには、必然的に文章は長くなること。そのうえで読まれるために新しい文体をつくらなくてはいけないともいっていて、この点についてもニュー・ジャーナリズムにヒントをみる。それはジャーナリズムから小説への接近である。

 

ちょうど魔術的リアリズムと逆の構図にも見える。あくまでニュースという観点からは、創作が入り込む小説とは一線を引いているが、『灼熱』を読みながらどこか重なるものを感じたのだった。

 

 

灼熱

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