ノンフィクション
東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)
臨床心理学の博士課程をでた著者は、沖縄のデイケア施設で仕事につく。待っていた業務は思っていたものとは違っていた。それはセラピーとケアという言葉で整理させる。学んできたのはセラピーだったが、現場ではケアが多くを占めていた。セラピーとは心に抱える問題に向き合って解きほぐす。ケアは心理の表面を整え、そこにいることを肯定する。しだいに明らかになるのは、「ただそこにいる」ことの難しさだ。たいていの場合、何かをすることがその場に「いる」ことを支えている。なにもしないでいることとか、意味のない会話とか、目的のない集まりとかの重要性と、その場を維持することの難しさってあるよなぁと思うことも最近増えて、この本の整理には助けられている。
スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』(草思社)
目にするニュースは悲観的なものが多く、世界はどんどんダメになっているのではないかと思ってしまいがちだ。しかし、そんなことはない。まず事実を確認しよう、と本書は呼びかける。世界は良くなっているということをデータで示しつつ、啓蒙思想を科学でアップデートする。たとえば、貧困や暴力は年々減少している。よせられた反論への対応も手広く、一つ一つ答えている。こういう本は意外と少ないのでかなり重要。もちろん現状に問題がないというのとは違う。こっちの総論をベースにして、個別論を考えていくようにしたい。
リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)
脳科学者によるこの本は、これまで当たり前だと思っていた情動に関する考え方が覆す説を提示する。情動の経験は受動的な反応ではない。状況や経験に基づいて脳が構築するものである。だから、同じ状況でも人によって情動は異なる。習得している概念によっても違う。つまり、情動はまったくコントロールできないものではなく、学習によって変えていけることも意味している。情動に関する思い込みから解放し、自由を見出すところがいい。
人間の視覚にまつわる4つ問いに答える本。①なぜ世界が色付きで見えるのか。②なぜ2つの目が顔の前についているのか。③錯視はなぜ起きるのか。④文字の起源はなにか。どれをとってもおもしろく、驚かされる。たとえば②は、ものを立体的にとらえる「立体視」のためと考えられがちだが、著者は「透視」説を出している。障害物ごしに向こう側をみるためだという。こういった仮説の証拠をどう固めていくのか、その検証プロセスも含めて楽しめた。
大山顕『新写真論』(ゲンロン叢書)
だれもが日常的に写真をとって共有できるようになった、スマホとSNS以降の写真についての論考。何も考えなくても写真を撮れる時代になったからこそ、考えてみるとおもしろいことともある。技術によって人間の行為や認識がどう変わるのか、という話の一番身近な例かもしれない。たとえば「自撮り」。もう当たり前になっているが、なんともいえない違和感を歴史的文脈のなかから言語化してくれる。
フィクション
柞刈湯葉『人間たちの話』(ハヤカワ文庫)
軽快な文体で、バリエーションに富んだSFの短編集。表題作「人間たちの話」が特によかった。主人公はずっと孤独を感じていた。生命の起源を考えたとき、地球上の生命はあるひとつの細胞の派生にすぎない。だとすれば、人間どうしの差などささいなものだ。「他者」を求めて、宇宙生命の研究をするようになる。人間関係が得意ではなかった彼だが、あるとき音信不通になった姉に置いていかれた子供と一緒に暮らすことになる。科学的好奇心と孤独、このふたりの思いがリンクするラストは素晴らしい。
リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』(新潮社)
どんな状況にあっても幸せにみえる女性タッサ。話すと周りの人も幸せな気分になる。その様子は奇妙にみえるほどだった。もしかすると何かの病気か、あるいは特別な素質、すなわち”幸福の遺伝子”をもっているのではと噂が広まる。メディアにとりあげられ、研究の対象になり、世間からも注目を浴びることになってしまい・・・。彼女との接点をもつ人物たち——作文の教員、心理カウンセラー、テレビ制作者、遺伝子研究者の群像劇。フィクションとはなにかを考えさせる。
イアン・マキューアン『未成年』(新潮クレスト・ブックス)
主人公はキャリアを積んだ女性裁判官。夫との結婚生活は破綻寸前になり悩みがつきない。仕事でも難題がやってくる。白血病の少年は宗教上の理由から輸血を拒否する。拒否し続ければ死亡するのは明らかで、病院は輸血を行いたいと訴えを起こした。聡明な少年と対話するシーンが印象的。信仰を認めるか、命を助けるか。判断能力のある成人として認めるか、年齢通り未成年なのか。とても考えさせられる。
ミステリ的な技巧に満ちた奇譚集。ミニマルな設定や掛け合いから発展して、しだいに明らかになる構図のうまさにニヤリとする。退屈しのぎに奇妙な話をするグループで起きる犯罪を描く「赤い部屋異聞」、悪魔との契約により謎解きに失敗しなくなった探偵の苦悩を描く「迷探偵誕生」、不合理に見える怪談をミステリ的に読み解く「葬式がえり」が特に好き。
深緑野分『戦場のコックたち』(創元推理文庫)
第二次世界大戦の米軍のコックたちによる戦場での謎解き。憂さ晴らし的な謎解きの楽しさと、過酷な戦場。謎解きはおもしろく、文章にも引き込まれる。ただ、これでいいのだろうかという違和感がどこかにある。生きていくこと、楽しむことのうしろめたさがある。読者にも同じことがいえる。葛藤は消えないが、ラストでうしろめたさを含めてこの物語が受け止めてくれた、と思った。