「その2人の関係」としか、言いようがない

角田光代『キッドナップ・ツアー』という夏休み小説がある。夏休みの初日、小学生のハルは外を歩いているとき、父親に「ユウカイ」される。それから二人はさまざまなところへ行く。買い物をして、海へ行って、宿で泊まる。ある日は公園でキャンプをする。またある日は、山に登って寺に泊まる。行き当たりばったりの旅路。これは親子旅行ではなく、あくまで「ユウカイ」というていで進む。
 

キッドナップ・ツアー (新潮文庫)

 
父親には謎が多い。仕事はどうしているのか、母親との関係はどうなのか。はっきりと語られることはない。想像するに、仕事はなさそうで、母親との関係も良くない。だらしない、みっともない、そんな印象を抱かせるばかりだ。そんな父親のことをハルは他人のように思い始め、しかし同時に好きになっていく。
遠くで手をふる小さなおとうさんは、他人みたいだった。
私は、あそこに立っている、いつまでもばかみたいに手をふり続けている男の人が大好きだと思った。
「おとうさん」は他人みたいで、「男の人」と呼び方が変わっている。そして好きだと思っている。これはどういうことだろう。

 

手がかりになりそうなのは、2人で海に浮かびながら夜空を見上げる場面。

おとうさんの白い浴衣がかろうじて見えるほどの暗闇の中で、足を動かして泳ぎ、泳ぎつかれたら一本の棒みたいに海水に浮かび、私は自分が、おかあさんともおとうさんとも、だれともつながっていない子供のように思えた。さっき電話で話した人はまったく知らない人で、となりにいる人もよく知らないだれか。おとうさんとかおかあさんとか呼べる人がまわりにいたことなんてただの一度もないような、そんな気持ちになった。そう思うことは、決してさびしいことではなく悲しいことでもなく、うっとりするほど気持ちのよいことに思えた。
人と人との関係が決まる以前のことを想像する。「だれともつながっていない」ことが、気持ちよい。
 
もう一つ似た場面。公園で寝ころび、夜空を見上げる。
星の合間の私たちは、おたがいまだであう前の、親子でもなくきょうだいでもなく、知りあいですらない、ただ切り離された一つのかたまりとして、それぞれの存在なんかまったく知らないもの同士として、ぷかりぷかり夜空に浮かんでいるような気がした。
ある人が知らない人に見え始め、同時に好きになるという逆説を、親子ではないありかたで関係しなおした、と僕は解釈している。いまの関係をほどいてみるというか。この二人は親子としてはうまくいかなかったが、違う形であれば幸福な関係になれるのではないか。その関係をどう呼べばいいのかはわからない。「その2人の関係」としか、言いようがない。
 
 
人はそれぞれ名前があり、固有名で呼ばれる。それならば、その人たちがつくる関係も、固有名でしか表せないくらい多様であってもおかしくない。
 
ドラマ化で話題になった『逃げ恥』や今年の本屋大賞『流浪の月』でも、珍しい人間関係のありかたが描かれている。本人同士はそれで居心地が良いのだけれど、親類や世間の目は厳しく、理解してもらうのは難しい。そのときに周りが見ているのは、数少ない人間関係の型とのギャップであって、本人たちじゃないのでは。

逃げるは恥だが役に立つ(1) (Kissコミックス)   流浪の月

  

もちろん親子とか夫婦と呼ぶのは便利で、多くの場合はそれで問題がない。ただ、あくまで側面のひとつだと思う。周りから「親子だからこうすべき」とか、「夫婦ならこうしないとおかしい」とか言われて、呼び方から関係を決められるのがやっかい。ほんとうは個別の関係が先にあって、それを便宜上なんらかの名前で呼んでいるという順番ではないか。
 
その意味で、同人誌や二次創作で使われるカップリング表記は興味深い。たとえば、「のぞみ」と「みぞれ」という人がいたとして、その2人を「のぞみぞ」と表記したりする(さまざまな表記法があるらしく、その深みや掛け算の順序問題には踏み込みません笑)。まさに固有名。関係性について突き詰めていくと、既存の言葉では表しきれない。結局「その2人の関係」と呼ぶほかはなく、呼びやすいように固有名詞にするしかない、ということだと思う。
 

 

キッドナップ・ツアー (新潮文庫)

キッドナップ・ツアー (新潮文庫)

  • 作者:角田 光代
  • 発売日: 2003/06/28
  • メディア: 文庫
 

  

 

流浪の月

流浪の月