連想読書日記

本を読んでいるときに湧きおこった連想のゆくえについて。

〈白いディストピア〉が待っている?~『すばらしい新世界』、『ハーモニー』、『ザ・サークル』~

ディストピア小説というジャンルがある。ディストピアとは、理想郷やユートピアの真逆の意味だ。その中でも、ユートピアを本気で目指した結果、ある人にとってはディストピアになるというタイプの系譜がある。あるテクノロジーや価値観が徹底され、それに疑問をもたない幸福な多数派に対して、違和感を覚える少数派が抵抗するという物語になる。

このような設定を、ぼくは勝手に〈白いディストピア〉と呼んでいる。理由は表紙が白いから。こんな風に。

 
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         とにかく白い、他は黒のみ。すべて早川書房
     (この前のノーベル賞祭りすごかったなぁ。関係ないけど)
 
これらの小説の表紙は、なぜ白いのか。まず思い浮かぶのは白衣。クリーンで、余計なものがない。徹底した管理が行き届いていて、無菌状態のようなイメージ。もう一つは白物家電。これも清潔感を演出している。加えて、便利なものが生活にどんどん入り込んでくるというイメージもある。
 
ここからは、写真に挙げた3作品の紹介を簡単に。ポイントは、どのような価値観が幸福なものとして定着しているか、どうやって価値観を定着させるか。 
 

オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

1932年に発表されたディストピア小説の祖。西暦2540年、世界的な戦争が終結し、共生と安定を目指して世界はつくりかえられた。人間の誕生はすべてコントロールされている。育成装置の中で生まれ、育てられる。育成方法は、5つの階級別に分かれている。エリートにはエリート用、労働者には労働者用のプログラムがある。その結果、明確な階級社会になるが、不満はない。自分の階級がベストという認識を育成段階で植えつけるから。与えられた場所を好きになるように”条件づけ”をする。人間関係は極めてオープン。気分が優れないときは、ソーマという薬ですぐに立ち直ることができる。

今回挙げた3作のなかで、管理社会として最も隙がない。生まれるときからすべてコントロールして、どんな状況に置かれてもそれを幸福と思うようにするというやり方。条件づけに失敗(?)したバーナードと条件づけされない保護区で生まれたジョンの葛藤で物語は進行する。

 

伊藤計劃『ハーモニー』

2008年発表。舞台は21世紀後半。この小説も〈大災禍〉と呼ばれる世界的動乱の時期を経て、社会がつくりかえられたという設定。スローガンは生命主義(生命至上主義)。人の命と健康を最重要とする。テクノロジーとしては、WatchMeとメディケアがある。WatchMeは体内に入れるナノマシンで、健康状態を常にモニターしデータを収集している。メディケアは健康状態に応じて、必要な薬品を合成し、治療するシステム。大人はみなこのテクノロジーを利用し、病気とは無縁の生活を送っている。また、健康状態を含めた社会的評価点は公開されている。これらの根底には、人の体はその人だけのものではなく、公共性があり、社会のリソースであるという思想がある。そのような価値観に異を唱え、反抗する少女たちの物語。

 

デイヴ・エガーズ『ザ・サークル』

2013年発表。舞台はグーグルとフェイスブックを合わせたようなIT企業サークル。この企業が掲げるのは、透明性とコミュニティのすばらしさ。すべての人がすべてを知ることができ、みんなで共有することこそ正しいという信念をもっている。実名SNS、ライブストリーイングがすべて保存され、コメントを送り合い、評価がランキングによって数値化されるような世界。すべてをオープンにしていく。秘密は嘘、共有しないと他人の知る権利の侵害というところまで話は進む。このような動きがどんどんとエスカレートしていく。新入社員のメイは憧れのサークルで働き始めるが・・・という物語。

上の2作では、戦争の反動によってディストピアに向かっていくが、この作品は日常からの地続きにある。テクノロジーとしても、現在あるものとそう変わらない。

  

これらの作品のテクノロジーはそれぞれだが、どれもある種の善意から始まっている点で共通している。価値観についていけない人は、不幸になる権利を求めているように見えてしまう。〈白いディストピア〉は、誰にも悪意がないからこそ厄介で、違和感を言葉にしづらい。

ひるがえって、現実はどうだろう。せめて言葉は自由であってほしい。こういう作品がずっと読めますように。

  

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 
ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)

ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)

 
ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)

ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)

 

 

小川哲『ゲームの王国』

ある作家の本を初めて読んで、この作品は好きかもしれないと思えたら、そのあとはいつも決まってこうだ。作者のことを調べて、ベテラン作家ならどこから読もうかと悩み、新人なら全部読もうと心に決める。興味はどんどん広がる。
 
自分にとって、小川哲『ゲームの王国』はまさにそういう本だった。
ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

 
ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

 
サロト・サル―後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子とされるソリヤ。貧村ロベーブレソンに生を享けた、天賦の智性を持つ神童のムイタック。皮肉な運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1975年のカンボジア、バタンバンで出会った。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺―百万人以上の生命を奪ったすべての不条理は、少女と少年を見つめながら進行する…あたかもゲームのように。
 
本の構成は、上下巻で群像劇。各章の最初に年、場所、視点人物が書いてある。
上巻は、1975年前後がメイン。主人公たちはまだ子供で、カンボジアの苦しい状況がひたすら描かれる。拷問されて裏切って、嘘が連鎖していきみんな処刑されていく。悲惨。
下巻では、時間が飛んで21世紀。ソリヤは政治家に、ムイタックは教授になっている。政治状況は上巻ほどひどくはない。だが、賄賂や腐敗は根強く残っている。ソリヤはルールを決める側に立たない限り、この状況は変えられないという信念で国のトップを目指す。ムイタックは、脳波の研究およびゲームの開発をしている。
 
タイトルにもあるようにゲームが大きなテーマとしてある。しっかり定義されているわけではないが、重要なのは目標とルールがあること。そして、目標への最短距離を妨げるような制約やルールが課されているということ。ゲームのモチーフが具体的にも抽象的にも使われている。
 
ルールを守って敵を倒せればいいけど、うまくいかない。そのときルールを破ってでも敵を倒すのか。感情的にはそうなることもある。しかし、その後はそれがルールになってしまい、天敵にルールを守らせることは難しくなる。ただでさえ難しいのに。なぜルールを守るべきなのかという前提がないとルールは機能しない。そしてその前提を共有するのは恐ろしく難しい。特に目先の利益を優先するときには。囚人のジレンマがいい例。集合行為のジレンマを理解して乗り越えなければ、ルールの前提はつくられない。人間の思考には、そういったバイアスがある。
 
バイアスにつながる話で、ソリヤと側近の「人類史の最大の敵は何か」というやりとりが興味深い。ある人は独裁者だと答える。この物語を読んでいる人なら誰もがうなずきたくなる。対するソリヤの答えは家族だ。理由は、家族という局所的な互恵関係が、国家というより大きな互恵関係の妨げになっているから。例えば世襲。能力ではなく、ただ親子というだけで権力が決まる。そこから抜け出るためのシステムがなんらかの選考システムだ。学歴や科挙みたいなもの。この意見はラディカルだが、ある種の本質をついていると思う。局所的な愛があるから功利的になれないということだと理解した。これもある種のバイアス。でも家族を捨てると、小さい集団をつくる手がかりさえ失われる可能性は大いにあると思う。
 
バイアスにどう立ち向かうか。ソリヤは政治家になった。ルールを設定するためだ。これはわかりやすい。一方、ムイタックは脳波を使った研究やゲームをしている。なぜか。注目すべきは、脳波によって進行するゲームだ。例えば、楽しむことがルールに組み込まれているゲームがでてくる。脳波が楽しんでいるシグナルを出さないと、先に進めないゲーム。このように、特定の脳波でゲームの進行を管理する。そうすると、脳波を出すためにプレイヤーはあるタイプの想像をする。あるいは記憶を呼び出す。この想像と記憶の呼び出しは、本質的には区別できない。すると、偽の記憶を意図的にプレイヤーに植えつけられる。これはもしかしたら、ルールを設定するための前提を脳に植え付けるということを意味しているのでは・・?
 
現実を変えるために、ある人は政治家になり、ある人は脳科学者兼ゲームクリエイターになる。この対比の鮮やかさ。物語全体通して、カンボジアの歴史、ゲーム理論開発経済学、心理学の背景がうまく組み込まれていて(自分も確認できるほど詳しくはないが)、それがとても効果的だと感じた。さまざまな興味を掻き立てる。 簡潔で軽快な文体もいい。
 
ハヤカワSFコンテスト大賞のデビュー作の『ユートロニカのこちら側』も読むしかない。もうすぐ文庫化らしい。
ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 
 

『ピクサー流 創造するちから』と『一般意志2.0』

ピクサー流 創造するちから』は、アニメーションスタジオのトップをはしるピクサーの歴史とアニメーション制作の裏側を書いた本である。その歴史はそのままアニメーション技術の足跡になっている。また、経営に参加したスティーブ・ジョブズの知られざる一面を知ることもできる。

 いわゆるクリエイティブ産業でもっとも重要なものは、アイデアである。アイデアは天才によってかたちになるのか。いや、そうではない。アイデアを生み出す仕組みやチームづくりが重要だというのが本書の主張。とりわけ興味深いのは、ストーリーを決める会議のやり方である。

 ブレイントラストと呼ばれるその仕組みはこうだ。まずストーリーの担当者がつくったデモムービーを会議で見せる。参加者はそのストーリーに自由に意見を言い合う。そのときの率直さがとても重要だという。担当者はその意見を持ち帰って、改良していく。そのとき、会議の意見に従うかどうかは担当者に任されている。「診断をするが、治療法は指示しない」というのが印象的。あくまで、映画の本来の軸を見失わないように意識させることを目的としている。

 重要なのは、会議の決定に従わなくてもよいことだろう。いろんな人に意見してもらうことで、見落としや勘違いなどすぐに解決する問題を発見しつつ、なんとなくの違和感も拾い上げる。そのようなメリットを生み出しつつ、多数決でつくられたつまらなさを避けることができる。ただ、大前提として会議のモチベーションや人間関係をうまくマネジメントする必要があるとも書いてある。信頼関係があってこそできる会議のやり方なのだ。

ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

 

 

思い出したのが、『一般意志2.0』である。この本を読んだのは、大学に入って最初の夏休みで、Twitterで見つけたような記憶がある。内容は、ルソーの一般意志という概念をインターネット以降の状況を踏まえて、再解釈&アップデートするというものだ。哲学や思想がどんなものかを初めて体験した。教科書にでてきたルソーとGoogleが並べて語られるなんて想像したこともなかった。そして、それがとてもおもしろいということも。文体のかっこよさも新鮮だった。以来、読書の傾向は大きく変わっていったように思う。それぐらいのインパクトがあった。

さて、話を戻そう。ピクサーの会議の話だった。これが『一般意志2.0』で提案される会議のやり方に似ている。こちらで想定されているのは政治の審議だ。そのやり方をものすごく単純化すると、専門家の会議を生中継し、視聴者のコメントを読めるようにしておくというものだ。視聴者のコメントには、多数決での一票みたいな効力はない。ただし、的確に拾い上げることで議論を方向付けることはできるかもしれない。

 このアイデアがそのまま生かされた事例は、民主党政権時代に行われた事業仕分けぐらいしかわからないのだけれど、単発で終わってしまい、手法が成熟するところまではいってない。政治とは違うところでは、生放送番組を見ているときに、コメントによって番組がいい方向へ展開するということを何度もみているので、可能性はあると思う。政治家がやりたがらないような気はするが…

 

肝は、アイデアだしと採用のプロセスを分けるということだ。まずアイデアの良し悪しはともかくいろんな案をあげる。次の段階として、順位付けをしていく。前者はメンバーが多い方がいいが、後者はそうではないと言えそうだ。最後の決断は、専門家の方に分があるのではないか。

これは専門家と集合知のどっちをとるかという話でもある。すべて多数決のほうに行ってしまうと、ポピュリズムになってしまう。ある集団を代表するけど、集団に従わないという奇妙なバランスが求められる。このあたりの話は、SNS以降、特に重要になっていると思う。