指導教員の退官にパーティーに参加した。その夜、もし自分がスピーチをするとしたらどうしただろうと考えていたら、頭をぐるぐるめぐり眠れなくなってしまったので、外に放出する。◆20XX年修士卒の○○○○です。今日はこのような会でたくさんの方とお話しすることができ、またスピーチの機会をいただき、とてもうれしく思います。私がM先生のことを思い出すときに考えるのは、教育的であるとはなにか、ということです。教育に含まれるある種の暴力性といかにして向き合うかという問題とも関連します。なにかを教えることはある種の暴力性をもっていると思っています。「愛のあるムチ」の問題です。学生のためを思って厳しくする。そのときに学生は嫌な思いをするかもしれない。しかしそれが学びにつながる。そうしたムチに愛を感じとるのには時間がかかります。ここに教育の抱える困難さがあると思います。思い出すのはこんな場面です。他の研究室の学生も含めた研究発表の日のことです。発表のあとの質疑で、先生はよく質問をされていました。発表中はパソコンをいじっていますが、質疑の時間になると、ほかに質問がなければさっと手を挙げました。そして鋭いことを聞きます。学生からしてみると、何事もなく終わりたいという気持ちがあります。嫌だなと思っていた学生もいたでしょう。実際、他の研究室の同期から、「そっちはいいよな、M先生からの質問がなくて」というようなことを言われたりもしましたが、「こっちは毎週やってるんだよ」と答えていました。私の場合はどうだったかというと、やはりすぐにはわかりませんでした。研究室に入りたての学生というのは、指導教員の愛に敏感な生き物なので、その手の話題には注意をひかれます。この前すごい怒っていたとか、あれでも丸くなったんだとか、もっと前はこんなことがあったとか。さまざまな情報が押し寄せてきます。そこで大切だったなと思い出すのは先輩たちの存在です。特に修士2年だったKさんとYさんは、この手の話題がでるたびに、笑い話を交えながらも、厳しいけど愛がある、というようなことを真剣に語っていました。先生の指導に愛があるかはまだわからない。しかしこの2人が愛を感じとっていることは確かだろう。そう信じることができました。そうした手掛かりがあったことは、いま思い出すととても幸福なことだったように思います。今日この会場に立って思うのは、もしかしたら先輩たちもさらにその上の世代を見て、同じようなことを感じとったのではないか。そうしたつながりのおかげで、あの3年間があったのではないかということです。いまは、教育のなかに暴力性はないというスタンスが求められる時代かもしれません。そうした状況では、教育的な姿勢を過剰に放棄するということもあるような気がします。教育に含まれる暴力性とどう折り合いをつけるか。これはパワハラを肯定するロジックに近接する難しい問題です。ケースバイケースで、答えられるのは時間だけかもしれません。しかし今日この場所にみなさんが集まって、交わされた会話がその答えを語っていると思いました。最後になりますが、私たちをご指導いただいたこと、本当にありがとうございました。そしてご退官誠におめでとうございます。◆3/7