里見香奈女流が棋士編入試験への挑戦を決めた。プロとの対局で好成績をおさめて規定を満たし、この8月から新四段5名との試験対局がはじまる。5局中3勝することができれば、女性初のプロ棋士の誕生ということで注目が集まっている。
将棋界でプロになるには2つのルートがある。棋士のほとんど全員は、奨励会というリーグ戦を勝ち抜くことでプロデビューする。このリーグには年齢制限があり、定められた年齢までに勝ち上がれなければ退会になってしまう。
もうひとつのルートとして棋士編入試験がある。当時アマチュア強豪だった瀬川晶司六段への特例措置をきっかけとしてこの制度がつくられ、年齢に関係なくプロ棋士を目指せるようになった。これは将棋界にとって大きな決断だった。
編入試験制度が議論された当時の話を知りたいと思い、同じテーマの2冊を読み比べてみた。どちらもタイトルに「奇跡」という言葉が入っているが、それが意味するところはなんだろうと思いつつ。
まずは瀬川晶司六段の自伝で、映画化もされた『泣き虫しょったんの奇跡』(講談社文庫)。生い立ちからプロ入りまでの半生がつづられている。
生まれは1970年。羽生善治を筆頭に将棋界の強豪がたくさんいる羽生世代と同い年。将棋界に画期的な変化をもたらした瀬川だが、子供のころのことをこう書いている。
この世に生まれてから小学五年生になるまでの十年間、僕は自分の意志で何かをしたことがほとんどなかった。何がしたいのかを考えたこともなかった。僕は本当に生まれてきていたのかさえ、疑わしかった。(p.47)
身構えが変わっていったきっかけは、ひとりの先生との出会いだった。とにかく生徒を褒める先生で、書いた詩を褒められたときのことをいまでも覚えているという。それからは、他のことにも不思議とやる気がでてきた。
ちょうどその時期に、学校のクラスで将棋がブームになる。瀬川は小学二年生のときに兄から指し方を教わっていたこともあり、クラスのなかでは強いほうだった。勝つことで自信がうまれ、将棋に熱中していく。その後、将棋大会を開くために、クラスの全員に将棋を教えるなど自分から積極的に動くようになる。きっかけしだいで、こんなにも人は変われるのかと思わされるいいエピソードだった。
学校の将棋ブームが去りつつあるころ、まだ将棋に熱中している人がいた。誕生日が6日違いで、同じ病院で生まれて、向かいの家に住んでいる健弥くん。漫画みたいな話だが、ずっとライバルとして盤をはさみ続け、1万局以上は指したという。2人は張り合いながら、強くなっていった。
駒を盤に打ちつける音と、どちらかが発する「負けました」の声。それだけが、僕たちのコミュニケーションだった。(p.78)
やがて2人は将棋道場へ行くようになり、さらに強い人たちのなかでもまれていく。この場面とかも文章がよくて、つい引用したくなる。
いままでは、相手に勝つことだけが快感だった。それだけが、将棋を指す目的だった。
しかし、自分の将棋を反省することが習慣になるにつれ、自分がきのうよりも少し強くなったのを実感するのが快感になってきた。今野さんの指導はときに厳しかったが、次第に僕は、強くなるためなら何を言われてもいいという気持ちになってきた。おそらく、それは健弥くんも同じだったと思う。将棋を生涯の友とする者なら誰でも経験する瞬間が、僕たちにも訪れていた。(p.90)
将棋大会での活躍、奨励会への入会とプロへの道を進んでいく。奨励会も順調に勝ち上がるが、プロへ最後の関門である三段リーグで壁にぶつかる。退会の年齢制限がせまるなかで対局するプレッシャーは想像を絶している。
一方、プライベートでは下宿が奨励会員たちのたまり場になっていて、どこか楽しそう。そのころは「自分のことしか考えていなかった」と書いているが、そんなことはなくて人が集まる魅力があったのではと思う。アマチュアからプロ入りに向けて動き出すときにたくさんの人が集まったのは、そういう面もあったのかなと。
それから奨励会を退会、どん底から大学へ行き、そして就職。しばらくしてからアマチュア棋戦に復帰した。楽しく指すことを思い出し、プロにも勝つほどの実力をつけていく。
編入試験までの経緯や対局の内容については、多くは語られていない。それまでの将棋人生をどのように生きてきたのかに重きが置かれている。人との出会いやもらった言葉で人生が変わったこと、回り道をした日々を肯定できる日がくること。ここに人生の奇跡がある、そう読んだ。
プロ編入試験については、古田靖『奇跡の六番勝負 サラリーマンがプロ棋士になった日 』(河出文庫)に詳しい。試験の1年前にさかのぼり、関係者の動きに焦点を当てている。
読み始める前には、六番勝負の対局の様子が中心なのかなと思っていたが、分量としては半分以下で、編入試験実現への道のりが物語のメインになっている。
この本では、六番勝負の実施こそが奇跡としてとらえられている。将棋界にとって、編入試験はそのくらいハードルが高いことだった。それもそのはず、これまですべての棋士は奨励会の厳しいルールのなかで勝ち上がってきた。将棋連盟もその棋士たちが運営しているので、ルールを変更するモチベーションは高くない。
そんな逆風のなかで、組織の制度改革をどう進めるか。プロにがんがん勝てるならプロにすればいいと素人目には思ってしまうが、連盟側に対応する義務はない。それがそれまでは自然だった。しかし、これではいけないと思い行動した人たちがいた。瀬川と同じアマチュア棋士、新聞記者、さらにはプロ棋士のなかにも制度改革に向けて奔走した人がいた。
当時まだ若手だった野月浩貴八段が、棋士たちと連絡をとりあっていたエピソードが印象的。
野月の携帯電話料金は3月以降、毎月数万円を超えるようになっていた。普段は数千円程度なのだ。若手棋士からの相談が多い。彼らは爽快での態度を決めかねていた。1時間、2時間と語り合うこともしばしばだった。アマ側は「瀬川のプロ入り」という主旨で活動しているつもりでも、棋士はこの要望を「アマチュアに門戸を開く」問題だと捉えていた。野月は連盟の苦しい内情を説明したうえで、こう語りかけた。
「若手である自分たちはこの先、何十年もこの世界で生きていく。閉鎖的な印象を持たれてしまったら、最悪だ。長期的なビジョンを持って対応しなければ、未来はないんじゃないか」(p.103)
しかし当時の感覚では元奨励会員がプロになれる可能性は限りなくゼロに近く「針の穴にバスケットボールを入れるようなもの」だった。しかし、様々な要因が絡まり合い、針の穴は広がっていった。将棋連盟が経営的に苦しくなっていた時期だったこと、米長会長が誕生したこと、森下が理事選に出たこと。そのすべては偶然だった。
(p.245)
今回読んだ2冊どちらにも書かれていたが、この当時、将棋界の未来は決して明るくなかった。みんな先を案じていた。人気が下火になっていたからこそ、思い切った改革ができたのかもしれない。
編入試験は、世間の注目を集めるイベントとして打ち出された。たとえば、第一局の相手は当時奨励会三段だった佐藤天彦。客入りの公開対局にして、3500円のチケットが完売したという。
盤外もふくめたパフォーマンスの要素が多く、挑戦者も試験する側もそのプレッシャーを引き受けた。世間に開いていくことでファンも増える。ただ棋士の反発はある。それはそれでもっともだ。だが、ある種の身を削る決断ができたことが、いまの将棋界につながっているかもしれない。将棋ソフトと戦った電王戦もこの延長線上にあるように思う。
これまで読んできた将棋ノンフィクションは、棋士の活躍や考え方を取り上げるものが多かった中で、この本は将棋界の組織や運営的な視点がよく見えておもしろかった。当たり前のことだけど、誰かが運営している。そのことを忘れずにいたい。