イアン・ハッキング『記憶を書きかえる』

イアン・ハッキング記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム』(訳/北沢格、早川書房)を読んだ。多重人格という現象を入り口に、記憶についての普遍的な議論へと展開していく。1995年の本ではあるが、SNS以降にもつながるような興味深いテーマが書かれていると思う。専門的な議論を追えた自信はないけども。

 

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

 
最初にタイトルのことを少しだけ。原題は”REWRITING THE SOUL: Multiple Personality and the Sciences of Memory”。そのまま訳せば『魂を書きかえる』なのに、邦題では「魂」が「記憶」になっている。これはどんな意図だろう?
 
本書いわく、ある時期をさかいにして、魂について考えることは記憶について考えることになった。記憶にまつわる科学が普及してから、「記憶が魂を知るための手段になった」その転換点を調べていく。
 
いいかえると、なにかを記憶していることがその人をその人たらしめている、という考え方がでてきた。アイデンティティといってもいい。自分には、以前はそうではなかったことをうまく想像できないが、おそらく宗教的なものに関連するのだろう。そんなわけなので、「魂」を「記憶」に置き換えてしまうのは、ある意味でこの本のテーマそのものといえる。

 

 
 
このような転換点を考察するために、著者は多重人格に注目する。1980年に診断基準ができてから、アメリカで急速に多重人格の症例が報告されるようになり、その後しばらくして病名からはなくなったという経緯がある。
  
多重人格は記憶と密接な関係をもつとされた。別の人格のときの記憶がないこと、失われた記憶がその原因とされることなど。典型的な構図として、幼いころの虐待などの抑圧された苦しみの記憶(トラウマ)を臨床家が見つけ出し、治療するということがあった。
 
しかし、その苦しみの記憶と多重人格のあいだにあるとされた因果関係は正しいのか。見つけ出された記憶は本当だろうかという疑問がある。この背景には多重人格が知の対象として科学化されていく動きがあり、上のような言説は本当らしさを獲得していった。また虐待にたいする人権運動とも並走していた。
 
 
著者の考えでは、多かれ少なかれ、臨床家が特定の記憶の形成にかかわっていたという。つまり、患者にはその記憶の元となる経験がなかったかもしれないということだ。あるいは、元となる経験があったとしても、あたらしく苦しみとともに思い出すようになった。これは驚くべきことだが、著者の関心は批判よりも現象そのものへ向かっている。
幼児虐待と抑圧された幼児虐待の記憶は、大人へ成長するときに大きな影響を与えると考えられる。私が関心を持っているのは、そうした命題が正しいか誤っているかということよりも、そうした仮定に導かれて人々が自らの過去を新たに書き直すに至る過程なのである。個人は自分の行動をそれぞれ違った風に説明し、自分自身についても違った風に感じる。過去を記述し直すとき、われわれは皆、新しい人間になる。(p.84)
 
「失われた苦しみの記憶によって多重人格が生み出される」という新しい物語がつくられ、広く知られるようになった。そして虐待を批判する根拠として、多重人格がもちだされるまでになる。そうして利用可能なあたらしい物語が登場すると、記憶は書き換えられれる。(あれは実は虐待で、それがいまの精神状態につながっているんだ)
 
よいとかわるいとかではなく、記憶とはそういうものになったという立場。より一般に、思い出すことは物語ることに似ている。世の中に流通している物語は、時代を経ると変わってくる。新しい概念はあたらしい物語を準備し、新しい思い出し方をさせる。
われわれは自分の魂を、自分の人生をつくりあげること(メイクアップ)によって構成する。すなわち、過去についての物語を組み立てることによって、われわれが記憶と呼ぶものによって、われわれは魂を構成するのである。(p.311)
 
このような意味で、「過去は不確定である」という。過去の記憶があやふやになってわからない、という意味ではない。過去の行為の意味が、のちに訂正される可能性があるということだ。
 
 
 
身近な話でいえば、たとえばパワハラという言葉がでてきた。すると、当時はなんとも思っていなかったが、「あれはパワハラだったんじゃないか、許せん」と思うこともでてくる。そんなふうにして、現れた概念によってあたらしい物語がつくられ、記憶が書きかわる可能性が生まれる。
 
さらには、現在の道徳観をもって過去の行為を非難することもおこる。これをどう考えるかは慎重になりたい。パワハラだったら非難して当然、と思ってしまうけれど、それは"パワハラ"成立以降にいるからかもしれない。
 
違う例で考えてみよう。肉料理を食べることはどうか。10年後に、いまよりも強く批判されていても不思議じゃない。そのときは「肉食」とは比べ物にならないくらいの不快感をあたえる呼び方とセットで、あたらしい概念がでてくるはず。
 
そんな未来があったとして、いま肉を食べてはいけないのかと考えてみても、どうもそうは思えない。・・・とか書いててすげえ怒られたらどうしよう。ごめんなさい...。
 
 
 
書いていて、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』の一節を思い出した。個人の記憶から共同体レベルまで話をひろげると、歴史の話になる。
世界を変えようとする運動は、歴史を書き換え、それによって人々が未来を想像し直せるようにすることから始まる場合が多い。労働者にゼネストを行わせることであれ、女性に自分の体の所有権を獲得させることであれ、迫害されている少数者集団に政治的権利を要求させることであれ、あなたが何を望んでいようと、第一歩は彼らの歴史を語り直すことだ。(p.80)