「足がつる」を意識しはじめたのは、小学校の低学年くらいだっただろうか。まわりでぽつぽつと、この言葉を聞くようになった。それは水泳の授業だったり、野球をしているときだったりした。
足がつった人はその場で止まって足をおさえ、とても苦しそうにしていた。痛みがひくのを待って、ストレッチをした。ぼくはそのころまだ足がつったことがなく、「足がつる」ということがなんなのかわかっていなかった。大丈夫かな、と思うのと同時に、なにが起きているのかを知りたがった。
周りに聞いてみた。突然痛みにおそわれる、しばらく安静にしているとおさまる、筋肉が引っ張られるような感じ、つる前の予感がある、など教えてくれた。なかには、長時間正座したときにおきる「しびれ」と混同している人もいた気がするが、なんとなくのイメージはできた。
それでもまだ謎は残った。「足をつる」という言葉の使い方について。みんながこの言葉をどうやって覚えたのかが気になった。あるときには、「君がその現象をそう呼ぶのはわかったけど、なんでそれがみんなと同じ「足がつる」だとわかるの?」というようなことを聞いた。いま思えば、そうとうめんどうなやつだ。
その答えに納得できたものはなかった。親や周りの人がそう言っていたから、という答えがほとんどだった。実際その通りなんだと思う。でも、つきつめて考えるとやっぱりわからない。だって、外からやってきた言葉と内からやってきた感覚を照合するのは、本人しかできないんだから。*1
感覚をあらわす言葉は全部この話になる。たとえば「痛い」も同じだが、「痛い」は自分もわかっているつもりでいた。だから余計に謎が増える。なんで自分が「痛い」という言葉の意味を共有できる(つもりでいる)のかもわからなくなった。
自分にとって「痛い」と「足がつる」のなにが違うかを考えてみると、経験がある(と思っている)かどうかしかない。「痛い」は感じたことがあるが、「足がつる」はまだない。この話をたびたび反芻しては、ここで行き止まりになった。
あれは高3の夏の夜、布団の中で足に激痛が走った。筋肉が引っ張られるようなあの痛みだ。ぼくは瞬時にすべてを理解した気になった。「足がつる」はこれだと。いままで聞いてきたことがつながる感じがした。それはなにかアイデアをひらめくような感覚に似ていた。
この経験をもってしても「足がつる」を人に教えろと言われたら、僕が人から聞いたのと同じ話をすると思う。ただ、それでは経験がない人には伝わらないこともわかる。どうもそういうタイプの概念があるらしい、ということを知った。
似たようなことは、「かわいい」にもあった。幼稚園ころから大量に聞いていたが、使われ方が自由すぎて、小学校に上がってもなにを言っているのかわからなかったが(いまでもあるかも)、いまではなんとなくわかる。「足がつる」の場合とはちがって、なにか決定的な瞬間があったというよりは、じわじわとわかる寄りになってきた。
もうひとつあるとしたら、はじめて自転車に乗ったときの感覚も近いかもしれない。広い公園で父親に荷台をつかんでもらい、ヨタヨタとこぎはじめる。最初はすぐ足をついてしまうが、繰り返しているうちに走れる距離がのびていく。気づいたときには親の手が離れていて、それでも倒れずに走っているあの感覚。
言葉だけでは、あの感覚にたどりつける気がしない。身体化された知識というか。人を自転車に乗せることはできでも、乗り方を教えることはできないのではないか。「こうした方がいいよ」は言えるけど、それだけではつねになにかが足りず、残りは自ら発見しないといけない。だからなのか、はじめて自転車に乗ったときの話を聞くとだいたいおもしろい。
もう忘れてしまったが、ウィトゲンシュタイン関連の文章を読んで、同じ問題を考えているのかもしれないと思ったことがあった。そのとき哲学がはじめて身近に感じられた。・・・にもかかわらず、難しそうだなぁという印象をひきずって、いまだ読めていない。周辺の本は読んでいるけど、さらに進むといろいろ考えもかわりそうなので、いまのうちに書いておこうと思ったしだい。
*1:正確には「足がつる」は感覚じゃなくて、客観的な症状かもしれないが、その場では診断というより自己申告に見えていた。