『数量化革命』、『測りすぎ』

言葉じゃなくて数字で示せ、とか、定量的な説明を、とか言われがちな昨今。数値にするとたしかにわかりやすい。ドラゴンボールスカウターしかり、 PSYCHO-PASSしかり。

将棋のネット中継が好きでよく見るのだけど、初心者でも見やすいのはソフトの評価値が画面にでることが大きい。あくまで暫定的な評価ではあるが、どちらが優勢なのかをざっくりと知ることができる。元々見ていた人の評判はどうかわからないが、将棋ファンの間口を広げるきっかけになっていると思う。


ものごとを数字で示すという考え方が隆盛してきたのは、13~16世紀の西ヨーロッパ。アルフレッド・W・クロスビー『数量化革命』は、数量化によって世界観が更新されるさまを描き出す。西欧の繁栄の背景として数量化と視覚化があり、科学革命を準備したという。

数量化革命

数量化の起源はもっと昔までさかのぼることができるが、この時代に多くの実践と結びついた。数量化は視覚化する技術と一体となり、実に広い範囲に影響を及ぼした。それぞれのテーマだけでも1冊の本になりそうなことが同時代に起きている。

  • 時間:機械式時計の発明、暦
  • 空間:地図・海図、天文学
  • 数学:アラビア数字、演算記号、代数表記法
  • 音楽:記譜法
  • 絵画:遠近法
  • 商取引:複式簿記

楽譜は初めてつくられたグラフだった、とあって面白い。たしかにあれは時間を横軸、音階を縦軸にとったグラフといえる。このような数量化の実践は、現実のとらえ方に変化をもたらした。

数量的な表現は、いかに単純化されていようと、また必然的に誤差や近似を伴うものであっても、言語的な表現より正確である。問題を数量的に表現してはじめて厳密に考察したり、コンピュータでシミュレーションするように処理したり、実験することが可能になる。数量的な表現は、表現する主体から一種独立したものとなり、言語的な表現ではめったに見られない効果を発揮する。つまり、主体の楽天的な見通しを否定し、より現実に即した推論をするよう促すのである。


数量化・視覚化によって、思考しやすい環境と道具立ての整備がなされ、科学革命の土壌がつくられていく。宗教的・神秘的な世界観と隣り合わせの状態でも、観測結果を重視するようになる。その結果、ケプラーガリレオのように自然法則を見出す成果が生まれる。

上に挙げた例では、自然を写し取り、理解することが重視されている。主観を取り払って、あるがままに世界をとらえようという思考だ。現代から見るとその難しさは理解しづらいかもしれないが、それは元々備わっていた力ではなく、歴史のなかで獲得された技術だということがわかる。


その中で、簿記だけは他と違う印象を受ける。人が考えやすいように視覚化する仕組みではあるが、自然相手ではなくて、自分(あるいは金)の動きを記述している。簿記の章には次のような注意書きがある。

複式簿記は明瞭さを保証するが、正直さを保証しないことを明確にしておく必要があるだろう。


これは複式簿記だけでなく、数値化するときは常に注意したい。なにかと数値目標をたてて業績評価がなされる現代。数値化にまつわる弊害もある。このテーマはジェリー・Z・ミラー『測りすぎ』に詳しい。 

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

いまや数値でものごとを管理する考え方は標準となっていて、いたるところに見られる。この手法が高い生産性や改善を生んできたことは事実だ。だが、うまく機能する場面とそうではない場面があることもまた事実だ。

うまく機能する場面の代表例は工場。同じものを大量生産するとき、材料の状態、設備のパラメータ、加工後の製品の測定をして、規格におさまるように調整して管理をする。


うまくいかない場合を見てみよう。たとえば、医者の優劣を評価する基準として、術後死亡率を導入したとしよう。ある医者の治療を受けた人のなかで死亡した割合が少ない場合、その医者は優れた医療を提供していると考える。

一見よさそうだが、うまくいかない。医者は楽して評価されたいがために、難病の治療を引き受けないという判断がでてきてしまう。

これを全ての医者がやったらどうなるか。術後死亡率はたしかに減少する。その代わりに、手術を受ければ助かったかもしれない命が犠牲になる。結果、どの医者が優れているのかもわからないし、全体の死者は増加する。これでは本末転倒だ。


問題は、術後死亡率という数値の内実をよく理解しないまま、評価基準にすることだ。術後死亡率と治療の質は単純な関係をもたない。その指標で評価したために、医者のインセンティブはゆがめられてしまう。本書の言葉でいえば、「測定のために治療する」ことに注力してしまう。すると、この評価システムは無意味どころか有害になる。

 

世の中には、測定できるものがある。測定するに値するものもある。だが、測定できるのもが必ずしも測定に値するものだとは限らない。測定のコストは、そのメリットよりも大きくなってしまうかもしれない。測定されるものは、実際に知りたいこととはなんの関係もないかもしれない。あるいは、本当に注力すべきことから労力を奪ってしまうかもしれない。そして測定は、ゆがんだ知識を提供するかもしれない――確実に見えるが、実際には不正な知識を。


ほかに思いつく例だと、いじめの問題もそう。いじめをなくしたいと思って、いじめがない学校を評価するシステムをつくる。すると、いじめは報告されなくなる。なくなるのではなく、隠される。その結果、表立った対策はなされずに当事者は苦しむことになる。

 
じゃあなんでそんなシステムが生まれるのかといえば、透明化とか説明責任といった言葉が背景にある。わかりやすく説明するためには数値化しよう、ってなってしまうのがやっかいで、しばしば説明のしやすさが目的になって、現実は置き去りになってしまう。

 

数量化革命

数量化革命