将棋ノンフィクションを読む09――鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』

鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋。2024年になって羽生善治九段の名前をタイトル入れた本が出る。それも話題のノンフィクション作家である鈴木忠平氏が書いたとくれば、期待は高まってくる。

 

羽生九段の半生記といった内容になるのだろう、そう思って読みはじめた。実際そうではあるのだが、その方法が想像していたものとは全然違っていて、たいへんおもしろく読むことができた。不意に3度涙が出た。

いまだ成らず 羽生善治の譜 (文春e-book)

2022年、羽生の順位戦A級からの陥落が決まった。 その敗戦の場面からこの本は始まる。22歳にしてA級まで駆け上がり、29年ものあいだその座を守り続けたトップ棋士の降級は、ひとつの時代の終わりを予感させた。

 

しかしそうした懸念を吹きとばすかのように、羽生はカムバックした。若手・中堅の強豪がそろう王将戦リーグを6戦全勝で勝ちぬけ、藤井聡太とのタイトル戦番勝負を実現した。その1年の場面が各章の冒頭におかれ、本全体をつらぬく軸となっている。そして各章には、これまで羽生に挑んできたトップ棋士や取材した記者など、いわば羽生の「目撃者たち」のストーリーが配置される。

 

猛スピードで追い上げてくる若手、同世代のスター、立ちはだかる偉大な先人。立場によって羽生の見え方は変わってくるが、誰にとっても将棋界で上を目指すということの一端は、羽生に勝利することを意味していた。そして羽生について考えるとき、自らの弱さに向き合うことをせまられた。

このままではダメだ‥‥‥。とりわけ浮き彫りになっている中盤戦の課題をなんとかしなければならない。大局を見通す眼と、深い森へと分け入っていく力が必要だった。

豊島には少し前から迷っていることがあった。それはこれまで積み上げてきた研究スタイルで将棋を続けるか、あるいは別の道を選んで自分を変えてみるか、という悩みだった。そして、この夜、羽生に喫した敗北によって、豊島は決断した。

(第3章 人が生み出すもの, p.80)

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トム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』

19世紀にはテレビも飛行機もコンピュータも宇宙船もなかったし、抗生物質もクレジットカードも電子レンジもCDも携帯電話もなかった。

ところが、インターネットだけはあった。

どういうこと?と、冒頭からつかまれるトム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(訳・服部桂がハヤカワ文庫から復刊された。19世紀のヨーロッパで発明され、人々の生活を変えたテレグラフや電信とよばれる情報通信技術の歴史。そこに現代のインターネット的なつながりの起源を見出している。

 

ヴィクトリア朝時代のインターネット (ハヤカワ文庫NF)

電信以前、長距離の情報のやりとりといえば郵便だった。海外からの情報となると数週間は遅れてしまう。馬や鉄道や船のスピードで通信速度が決まっていて、手紙と人が同じ速さで動いていた時代。

 

そこにブレイクスルーを起こしたのが、即時に伝わる電気信号による情報伝達だった。電信の技術的な要素には大きく2つある。メッセージをどのように電気信号に変換するかという符号化と、電気信号を遠くまで送って検出する技術。その両方でブレイクスルーが起きたのがこの時期で、モールス信号というかたちで広まっていく。

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沢木耕太郎ノンフィクションⅨ『酒杯を乾して』

沢木耕太郎ノンフィクション〉シリーズのラストは、観戦記を7作収録。うち1作は長編となっている。F1、陸上、ボクシング、スキー、オリンピックと競技はさまざまだが、著者ならではの角度からストーリーが紡がれていて、競技に詳しくなくても読むことができる。あえてスポーツと巻を分けている理由など含めて、読み比べてみるとおもしろそう。読んでみての私見では、観戦記は著者自身の物語としての側面が強い。

 

酒杯を乾して 沢木耕太郎ノンフィクション 9

 

 

「雨 F1グランプリ」

初出:「スポーツニッポン」1976年10月25日

思いもかけないことが起こってしまった。自分が仮想の世界で構築していたレースが根底から崩れてしまったのだ。

F1グランプリが日本で初めて開催され、レース翌日の新聞にのった観戦記。紙面におさまらなかったロングバージョンとなっている。このレースはそのシーズンの最終戦で、チャンピオン争いのトップにいたフェラーリニキ・ラウダに注目していた。ラウダはその年の前半からチャンピオンへの道を独走していたが、ドイツ・グランプリの事故で重傷を負い戦線離脱する。その間、マクラーレンジェームス・ハントが追い上げてきた。しかしラウダは復帰し、決着は僅差のままこの最終戦にもちこまれた。雨が降るなかスタートしたレースは思わぬ結末を迎える。

 

新聞に書くということはすぐに書くということで、事前に予定の原稿みたいなものをつくっていたらしい。結果、そこから大きくはずれることになり、その差分を意識した観戦記になっている。短い文章のなかにレースの背景情報をコンパクトにいれ、本番はあっさりと終わる。死の淵から生還したニキ・ラウダがこの最終戦でなにを考えていたのか。ふとわかったような瞬間があり、またわからなくなってしまう。

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話しことばと書きことばのあいだに~『編集の提案』、『「まちライブラリー」の研究』

編集者・津野海太郎の文章をあつめた『編集の提案』(編・宮田文久、黒鳥社)を読んだ。かなり前に書かれたものもふくめて、いまこそ読まれてほしいということで2022年に出た本。

編集の提案

「第1章 取材して、演出する」がとりわけ印象に残った。この章には「テープおこしの宇宙」「座談会は笑う」「初歩のインタビュー術」「雑誌はつくるほうがいい」という4つの文章があり、いずれも章題のとおり、人に話を聞きにいって記事をつくることについて書かれている。

 

つまり編集について書かれていて、そこに「演出する」という言葉をつかうところに著者の意図が感じられる。というのも、原稿を依頼して受け取るのではなく、人に話を聞いて自分で文章にするというタイプの編集を指していて、そこに編集の魅力があるという。以下は「テープおこしの宇宙」からの引用。

話しことばと書きことばのあいだの――その両方がかさなりあったり、ひしめきあったりしている空間に身をおくことが好きだ。いや、かさなったりひしめいたりなどと書くと、へんに充実した感じになってしまう。だから、つぎのようにいいなおしておく。話すことと書くこととのあいだには、けっして埋めることのできない隙間がある。私はその隙間に身をおいて仕事をすることが好きなのだ。(p.16)

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沢木耕太郎ノンフィクションⅧ『ミッドナイト・エクスプレス』

沢木耕太郎ノンフィクション〉の第8巻は紀行/長編。いよいよあと残り2巻というところで「深夜特急」の登場。単行本では3冊、文庫版では6冊のこの作品が、二段組700ページほどの1冊にまとまっている。2年前に文庫で読んだばかりだが、このたび分厚い本で再読した。巻末には「深夜特急ノート」と題された旅先で書いたノートからの抜粋もある。

ミッドナイト・エクスプレス (沢木耕太郎ノンフィクション8)

 

深夜特急

初出:「産経新聞1984年6月~1985年8月(単行本第一、二巻)、単行本第三巻は1992年10月書き下ろし

ある朝、目を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。(p.12)

インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスで行く。そういう旅を構想して「私」は日本を出発する。冒頭の引用は書き出しの部分で、デリーに滞在しているときの心情だ。実はデリーに着くのは本の半分くらいの位置なので、旅の中間地点でありつつ本来のスタート地点へと読者はいきなり連れていかれる。

 

日本からデリーへの航空券は途中2か所を経由できるというもので、まずは香港に立ち寄る。第二章で時間を戻して、また日本からスタートすることになるのだが、この書き出しの一文は日本を出たいという気持ちにも重なり、この旅のはじまりとして強い印象を残した。

 

なぜユーラシアなのか。それもなぜバスなのか。確かなことは自分でもわかっていなかった。日本を出ようと思った時、なぜかふとユーラシアを旅してみたいと思ってしまったのだ。(p.20)

立ち寄る場所があまりにも多いので、目次で振り返るとこんな感じ。香港からマレー半島を経由し、ユーラシア大陸を西に進んでいく。

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二つの『文学のエコロジー』

2023年の秋に『文学のエコロジー』というタイトルの本が2冊刊行された。

ネットで「文学のエコロジー」という文字列を見て、「文学」も「エコロジー」もなんとなくわかるが組み合わさるとうまくイメージできなかった。それだけになにが書かれているんだろう、と興味をひかれた。そしてもう1冊同じタイトルの本が同時期に出るときた。これは両方読んでみたくなるというもの。

宮下志朗『文学のエコロジー

文学のエコロジー (放送大学叢書)


まずはこちらの本から。まえがきを読むと、2013年の放送大学の教材を中心にして編まれた、とある。「文学のエコロジー」は科目の名称で、学際的あるいは超域的な科目をという要望に応じたものらしい。

エコロジー」という単語を国語辞典で引いてみると、「1・生態学、2・自然環境保護」となっている。われわれは「文学」というと、どうしても「作品」とか「作家」を思い浮かべる。しかしながら、そうした「作品」が、いかなるプロセスで成立したのか、また、いかなる環境で流通し、受容されたのかといった問題を捨象して、純粋にテクストだけを対象とするのは、「文学」の理解にとっても、けっして幸福なこととはいえないだろう。(p.4)

文学を理解するために「作品」や「作家」のことだけでなく、外側にある環境とのつながりにも目を向けてその生態系を描き出そうと試みる。文学史や書物史、メディア論に重なるところが大きい。

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