鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)。2024年になって羽生善治九段の名前をタイトル入れた本が出る。それも話題のノンフィクション作家である鈴木忠平氏が書いたとくれば、期待は高まってくる。
羽生九段の半生記といった内容になるのだろう、そう思って読みはじめた。実際そうではあるのだが、その方法が想像していたものとは全然違っていて、たいへんおもしろく読むことができた。不意に3度涙が出た。
2022年、羽生の順位戦A級からの陥落が決まった。 その敗戦の場面からこの本は始まる。22歳にしてA級まで駆け上がり、29年ものあいだその座を守り続けたトップ棋士の降級は、ひとつの時代の終わりを予感させた。
しかしそうした懸念を吹きとばすかのように、羽生はカムバックした。若手・中堅の強豪がそろう王将戦リーグを6戦全勝で勝ちぬけ、藤井聡太とのタイトル戦番勝負を実現した。その1年の場面が各章の冒頭におかれ、本全体をつらぬく軸となっている。そして各章には、これまで羽生に挑んできたトップ棋士や取材した記者など、いわば羽生の「目撃者たち」のストーリーが配置される。
猛スピードで追い上げてくる若手、同世代のスター、立ちはだかる偉大な先人。立場によって羽生の見え方は変わってくるが、誰にとっても将棋界で上を目指すということの一端は、羽生に勝利することを意味していた。そして羽生について考えるとき、自らの弱さに向き合うことをせまられた。
続きを読むこのままではダメだ‥‥‥。とりわけ浮き彫りになっている中盤戦の課題をなんとかしなければならない。大局を見通す眼と、深い森へと分け入っていく力が必要だった。
豊島には少し前から迷っていることがあった。それはこれまで積み上げてきた研究スタイルで将棋を続けるか、あるいは別の道を選んで自分を変えてみるか、という悩みだった。そして、この夜、羽生に喫した敗北によって、豊島は決断した。
(第3章 人が生み出すもの, p.80)