『月をマーケティングする』、『デジタル・ミニマリスト』

アポロ11号とともに人類がはじめて月面に降り立ってから今年で50年になる。いまでは経営者が宇宙事業に乗り出し、宇宙ステーションへの輸送を手がけている。この間に機体制御、コストダウン、通信などの技術は蓄積されてきた。

次は火星へ、といった発言もときどき目にする。しかしなんというか盛り上がりを感じない。もっと大事なことがあるだろう、みたいに。アポロ計画のときはどうだったのか。

デイヴィッド・ミーアマン・スコット&リチャード・ジュレック『月をマーケティングする アポロ計画と史上最大の広報作戦』(訳/関根光宏・波多野理彩子、日経BP社)の帯文にはこうある。

人類がまだ火星に行っていないのは、科学の敗北ではなくマーケティングの失敗なのだ。

月をマーケティングする

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『「罪と罰」を読まない』、『読んでいない本について堂々と語る方法』 

名作と呼ばれる本は多い。そのたぐいのブックリストを見るたびに、どれだけ読んでいないかを知ることになる。読んだらきっと面白いんだろうなー、でも多すぎて読み切れんなー、とつねづね思っている。
 
ドストエフスキー罪と罰』といえば、名作リストの定番だ。とある宴席で居合わせた岸本佐知子三浦しをん吉田篤弘吉田浩美の4人は『罪と罰』を読んだことがなかった。でも、なんとなく知っていることもあった。逆に、読んだことがある人に内容を聞くと、あんまり覚えていなかったり。もしかして、読んだ人も読んでない人もそんなに変わらないのでは?だったら、読まずに集まって読書会をしてみよう、というユニークな企画が立ちあがった。その模様は『「罪と罰」を読まない』(文春文庫)に収められている。
 

『罪と罰』を読まない (文春文庫)

中井英夫『虚無への供物』、東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」

日本三大奇書のひとつ、中井英夫の長編『虚無への供物』を読んだのはずいぶんと前のことになる。氷沼家におこるいくつもの不審な死とその謎とき。ペダンティックな推理合戦や意外な真相など魅力は多いが、ぼくにとってもっとも印象的だったのは、ある人物が推理を繰り広げるその動機だった。

新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

 単なる偶然による事故死か、計画的な犯行か。
「どちらが人間世界にふさわしい出来事かといえば、むしろどこかに凶悪な殺人者がいて、計画的な放火なり死体遺棄なりをしたと解釈したほうが
まだしも救われる、まだしもそのほうが人間世界の出来事といえるじゃないか。(中略)人間世界の名誉のために、犯罪だと断定したいくらいだ。」
「氷沼家のおびただしい死人たちが、無意味な死をとげたと考えるよりは、まだしも血みどろな殺人で死んだと考えたほうがまだましだということだ。聖母の園の事件もそうだが、もし犯人がいないというなら、ぜひとも創らなくちゃいけない。狡知なトリックを用いてわれわれを愚弄し、陰で赤い舌を出している犯人が必要なんだよ。」(上巻p.376-377) 

『インフォメーション』、『見知らぬものと出会う』

20世紀中葉に「情報」には科学的な定義があたえられた。それ以降、情報はいたるところに見いだされ、情報技術の発展しつづけてきた。ジェイムズ・グリック『インフォメーション 情報技術の人類史』(訳/楡井浩一 新潮社)は、情報という軸で分野横断を試みる。シャノンの情報理論を起点として、通信、文字、言語、計算機、心理学、メディア、暗号、論理学、物理学、生物学を貫通する。物体として重厚な本だけれども、読みやすく興味深いエピソードが並んでいる。

インフォメーション―情報技術の人類史

第1章はトーキング・ドラムの謎から始まる。トーキング・ドラムとは長距離通信を行うための太鼓の奏法であり、アフリカで発見される。はじめヨーロッパ人にとっては、太鼓で情報伝達をしているということすら思いもよらないわけだが、解読できるようになってもメッセージの送り方に謎が残った。

鼓手は、単に″遺体″ではなく、"土くれに仰向いて横たわるもの"と、凝った言いかたをした。"恐れるな"ではなく、"口から出た心臓を引き戻せ、口の外にある心臓を、胸に引き戻せ"と言った。トーキング・ドラムは泉のごとく、修辞に富む文章を湧き出させた。いかにも効率の悪いやりかただ。それは、ただの大仰な言葉遣い、あるいは奇をてらった物言いだったのか?それとも何か別の意図があったのか?

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本を読む物語~「デス博士の島その他の物語」、『リズと青い鳥』

登場人物が本を読む話について書いてみた。ネタバレありなので注意。

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」。書きだしはこんな風。
 落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい鋼青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜のうちに訪れた冬景色のなかを何時間も歩き回るだけだ。
孤独な少年タッキーは、買ってもらった本にのめりこんでいく。すると、本の登場人物たちがときどきタッキーの前に現れ、会話をしたりする。タッキーはますます本に夢中になる。
 きみは枕の上に本をふせてはねおきる。自分の体を抱きしめながら、はだしで部屋のなかをぴょんぴょんとびまわる。わぁ、おもしろい!すごいや!
 でも今夜はここでやめよう。全部読んだら損しちゃう。あとは明日にとっておくんだ。
ここなんかは読書の楽しさをよく表していて、とてもいい。
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2019年上半期に読んだ本ベスト10

・フィクション

リチャード・パワーズ『われらが歌う時』(訳/高吉一郎 新潮社)

われらが歌う時 上 われらが歌う時 下

ユダヤ人の父と黒人の母、3人の子供。人種差別のなかで生きるアメリカの家族の物語。家族それぞれのパートがつぎはぎで語られ、合流してくる。その間の世界史的な話をあくまで個人の視点から巧みに描いている。とりわけラスト、リアリティのレベルをはみ出してでも出現させた光景が忘れがたい。

とにかく文章がいい。書き出し「どこか空っぽの音楽室で兄が歌っている。まだ声は湿り切ってはいない。これまで兄が歌ってきた部屋の壁にはいまだに彼の声の反響が彫り込まれている。特別な蓄音機が発明され、その反響を再生する日を待ち続けている。」

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