オイディプス王をめぐって~『不道徳的倫理学講義』、『論理の蜘蛛の巣の中で』

本を読んでいて印象的な引用があると、ほかの本での言及が思い出されて本棚を見渡すことがよくある。聖書やギリシャ神話は頻出するので、読んだらもっといろいろ楽しめるのだろうなぁと思いつつ手が伸びない。あまりにも言及されるのでぼんやりとはわかるのだけど。

ギリシャ悲劇のオイディプス王の物語もその一つだ。物語のあらすじはこんな感じ。

テバイの王ライオスは「子供が自分を殺して王になる」との神託をおそれ、幼い子供の命を奪おうとする。これを免れた子供オイディプスは、隣国の国王夫妻のもとで自分の素性を知らないまま成人する。オイディプスもまた「自分が父を殺して王となる」という神託を受け、育ての親のもとを去る。そのころ怪物スフィンクスが人々に謎を与えて命を奪っていた。対処に向かったライオスはオイディプスに出会う。争いが起こり、オイディプスは父と知らずにライオスを殺す。その後オイディプススフィンクスを倒し、テバイの王となる。さらに不作と疫病の原因は父殺しの犯人という神託にもとづき、犯人捜しをはじめる。ラストでその真相を知り、自分の目をつぶし宮殿を去る。


去年のベスト本の1つ、古田徹也『不道徳的倫理学講義』にもオイディプスの例がでてきた。この本は倫理学にとって運がどう扱われてきたかを検討する。ある行動が倫理的かを判断するとき、大きく2つの考え方がある。善い目的かどうか。善い結果をもたらしたかどうか。難しいのは、善い目的をもった行動でも運しだいで結果がどうなるかはわからないことだ。だから運の扱いに困ってしまう。そのような困難を抱えた倫理と運の関係を丁寧にたどる。

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

そのなかでオイディプス王の話を重要な例として挙げている。注目しているのは、目的と結果が食い違ってしまうという問題。例えば、父を殺すのを避けるために隣国から旅に出ることだ。その結果、父を殺すことになる。

主人公のオイディプスは、悪しき運命を避けようと願い、よかれと思って様々な対策を講じるが、それがことごとく裏目に出て、それと知らずに運命を成就させてしまう。(p.69)

運命の回避が運命の成就に結びついてしまう。この不条理は悲劇の型といえるかもしれない。

このストーリーは緩い決定論としての解釈できる。決定論は、すべての起きることは決まっていて選択の余地はないと考える。他方、緩い決定論ではすべてが決まっているわけではない。いくつかのチェックポイントは決まっているが、その途中の経路には自由度があると考える。

緩い決定論を認めた上でオイディプス王の物語をみるとどうだろう。未来が決まっているのに悪あがきしたせいでよけい苦難を背負ったという皮肉か。それとも決められた筋書きの中に自分の爪痕を残したとみるか。

オイディプス王』では、その全篇にわたって、ひとつの行為がしばしば両義性をもって立ち現れている。運命の回避を意味するはずの行為が、むしろ運命の成就を意味していたり、オイディプスが自らの強さや聡明さを誇る行為が、かえってその弱さや愚かさを示していたりする、という具合である。この構造が、我が目を潰すという行為にも通底している。つまり、そのみじめな愚行は、他面では、かろうじて彼に自分自身の意志の働きを実感させ、また、彼のいわば内なる目を開かせる契機ともなったのである。(p.83)

 


この流れで本棚から取り出したのは巽昌章のミステリー評論集『論理の蜘蛛の巣の中で』オイディプスについての印象的な言及があったことを思い出し再読してみる。第十五回「答えは私」という章でその魅力に迫っている。

論理の蜘蛛の巣の中で

言及される文脈は、本書に繰り返し現れる構図と個人の葛藤について。一般的にミステリーは個人の視点からはじまり、謎が明らかになるにつれ大きな構図が見えてくる。それに読者は驚く。構図は誰かの計画のときもあれば、土地の歴史や複雑な人間関係のときもある。

しかしややもすると、全体の構図のために登場人物である個人は操られたようにみえてしまう。 見えない意思に突き動かされたように。オイディプスの物語では、この構図は神託に相当する。さらにスフィンクスの謎々もその文脈で解釈できるという。

「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か」。答えは人間だ。赤ちゃんから成人し、やがて杖をつく。おもしろいことに、この本では別解を紹介している。その答えとは人間一般ではなく、オイディプス本人だ。自分の目を潰すという最後を暗示していたというわけだ。

謎々の答え「人間」とは、私の解釈では、オイディプスなる男が、自分と仲間たちを「人間」という抽象概念でくくる能力を備えていたという意味をもつ。個人の特性を捨象し、人生の重みを足の本数の変化にまで抽象化できるようになってはじめて謎は解ける。ものごとを突き放し、すべてに距離を置くことで隠れた論理を見出すという抽象化の能力は、私たちのなじんでいる名探偵たちにも共通のものだ。しかし、オイディプスを「名探偵」にしたこの能力が、同時に、「この私」としての自分を見失わせ、やがて超個人的な運命の構図を招き寄せるものだったところに悲劇の核心がある。(p.149)

たいへん興味深い。オイディプスに名探偵としての能力を発揮し、スフィンクスを倒すことで王になる。そして父殺しの探偵役をかってでるが、真相は探偵=犯人だ。この徹底したまでの不条理さが人を惹きつけるのだろう。

この構図をつくりだすのは神託である。もしこの物語の冒頭に神託がなかったらどうだろう。おそらくこの話は成立しない。予言が提示されるミステリーでいえば、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』なども同じような構図をつくっている。予言が本当かどうかはわからないが、それを知った人々の行動は少なからず変化する。言葉の力というか、なにかを想像させることが及ぼす影響も考えてみたくなる。

 

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

 

  

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で

  • 作者:巽 昌章
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/10/13
  • メディア: 単行本
 

 

魔眼の匣の殺人

魔眼の匣の殺人