『「罪と罰」を読まない』、『読んでいない本について堂々と語る方法』 

名作と呼ばれる本は多い。そのたぐいのブックリストを見るたびに、どれだけ読んでいないかを知ることになる。読んだらきっと面白いんだろうなー、でも多すぎて読み切れんなー、とつねづね思っている。
 
ドストエフスキー罪と罰』といえば、名作リストの定番だ。とある宴席で居合わせた岸本佐知子三浦しをん吉田篤弘吉田浩美の4人は4人とも読んだことがなかった。でも、なんとなく知っていることもあった。逆に、読んだことがある人に内容を聞くと、あんまり覚えていなかったり。もしかして、読んだ人も読んでない人もそんなに変わらないのでは?だったら、読まずに集まって読書会をしてみよう、というユニークな企画が立ちあがった。その模様は『「罪と罰」を読まない』(文春文庫)に収められている。
 

『罪と罰』を読まない (文春文庫)

未読のまま読書会をするといっても、なにも手がかりがなくてはどうしようもないので、ルールを決めて拾い読みをする。まずは冒頭の1ページと最後の1ページだけを読む。あれこれと話しながら、ポイントと思われるところを指定して1ページだけ読む。それができるのは全6章の各章3回まで。

 
飛び石のように明かされる物語の断片。急にでてきた人物は誰なのか。どこが舞台なのか。殺人がおきるらしいけど、どうなったのか。と思ったら、また知らないやつがでてきた。などなど、圧倒的に情報が足りない。そのなかで、小出しにされる手がかりから、物語の筋を推測していくところがおもしろい。当たった外れたは別にして、物語をつくっていく4人の発想になんども驚かされた。
 
名作を読んでいないということ楽しみに変える実験。自分でもやってみたくなる。ちなみに、後半には読後の読書会がある。のだが、未読のほうが明らかにおもしろい。自分がまだ『罪と罰』を読んでいないからかもしれないが。
 
『「罪と罰」を読まない』は楽しい遊びであると同時に、次のような問いを投げかける。読むとは何か?ある本を読んだとはどういう状態なのか?

読んだつもりでも、まったく覚えていない本もあれば、手にとっていなくてもあらすじを知っていることもある。読んだと読んでいないの間にはグラデーションのような広がりがある。暗唱できる、飛ばし読みした、映画では見た、タイトルだけ知っている、書評は読んだ、などなど。
 
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ピエール・バイヤール『読んだことのない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、訳/大浦康介)という本がある。浅いハウツー本を思わせるタイトルが気になるが、それはおく。本を読むこととその記憶に様々な位相があることを整理しつつ、未読であることの気後れを取り払うどころか、積極的にポジティブな側面を見出す。

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

本書の主張は、ある本の内容よりもその本のおかれた文脈や関係性を把握することに重きをおく。
教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。(p.33)
本の内容を深く読むこととは別に、その本を取り巻く言説が重要になる。自分がいまどの位置にいるのか、「全体の見晴らし」を知ること。それさえできれば、本を読んでいなくてもかまわないとさえいう。

これはある種の権威主義への批判になっている。この本を読んでないやつは××といったようなものいいを相対化し、強迫観念から解放してくれる。

ただし、ここで大事なのはあくまで相対化で、読まないことの肯定を徹底すべきだとは思わない。本を読むことは「全体の見晴らし」を知るためにも優れたルートだと思う。

もうひとつ興味深いのは、読んでない本について語ることと創造性の関係について。
読んでいない本についての言説は、(中略)われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。というのも、この言説は、それを実践する者に自己と書物が袂を分かつ最初の瞬間を経験させることによって、創造主体の誕生に立ち会わせるからである。そこで読者は、他人の言葉の重圧からついに解放されて、自己のうちに独自のテクストを創出する力を見出す。こうして彼はみずから作家となるのである。(p.266) 
なにかを創造するには、書物との距離をとらねばならないといっている。本を読まないというのがその極端な例だ。『「罪と罰」を読まない』でやっていることはまさにこれ。

また繰り返しになるが、本を読まなくていいともいっていない。
読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。(p.263)
「自分自身に至る」の部分は、「創造する」に置き換えてもいい。参考文献を読まないと本は書けないが、それだけでも書けない。自分なりの視点とか編集みたいなものが必要で、そのためには参考文献から距離をとることが肝要になる。それができれば、「読んでいない本について堂々と語る」というより「書かれていない本を創造する」ことができそうだ。
 

 

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)