中井英夫『虚無への供物』、東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」

日本三大奇書のひとつ、中井英夫の長編『虚無への供物』を読んだのはずいぶんと前のことになる。氷沼家におこるいくつもの不審な死とその謎とき。ペダンティックな推理合戦や意外な真相など魅力は多いが、ぼくにとってもっとも印象的だったのは、ある人物が推理を繰り広げるその動機だった。

新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

 単なる偶然による事故死か、計画的な犯行か。
「どちらが人間世界にふさわしい出来事かといえば、むしろどこかに凶悪な殺人者がいて、計画的な放火なり死体遺棄なりをしたと解釈したほうが
まだしも救われる、まだしもそのほうが人間世界の出来事といえるじゃないか。(中略)人間世界の名誉のために、犯罪だと断定したいくらいだ。」
「氷沼家のおびただしい死人たちが、無意味な死をとげたと考えるよりは、まだしも血みどろな殺人で死んだと考えたほうがまだましだということだ。聖母の園の事件もそうだが、もし犯人がいないというなら、ぜひとも創らなくちゃいけない。狡知なトリックを用いてわれわれを愚弄し、陰で赤い舌を出している犯人が必要なんだよ。」(上巻p.376-377) 

事故ではなくて、事件を起こした犯人がいてくれた方がいい。これは願望であり、真相とは関係がない。陰謀論へに接近するこうした考えは、通常の探偵小説では冷静にいさめられて終わる。それが”合理的な”思考というものだろう。しかし、この一節からはとても強い印象を受けた。実際、この物語の結末とも深く関わる箇所だ。

 
この小説は1954年から始まる。その年に起きた洞爺丸事故では1000人を超える人命が失われた。この事件を筆頭に悲惨なニュースが多かったらしい。そんな風に、人の生が無意味であっていいはずがない。不条理への抵抗として推理する。それが何か現実を変えるわけではない虚無への供物だとしても。この心理は普遍的なものに思えた。
  
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ゲンロン10

東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(『ゲンロン10』所収)は、加害者と被害者の非対称性を論じている。

具体的には、次のようなことだ。加害者は害の無意味さを気にとめず、忘れていく(「だれでもよかった」)。他方で被害者は害の無意味さに耐えられず、意味を与え、記憶する。「だれでもよかった」ではとても納得できない。害の必然性を求めてしまう。

このような構図のなかで抜け落ちるもの、それは悪の愚かさである。
ほんとうに記憶すべきものは、まさに加害者たちが、犠牲者を数に変え、固有性を奪い、交換可能な実験材料として、だれがいつだれを殺してもいいし殺さなくてもいい、そのような徹底した無関心に達していたことのおそろしさにあったはずなのである。その無関心こそが、彼らが悪をなすことを可能にしたのだから。けれどもそのおそろしさは、被害者が害を物語化し、悪に意味を与えた瞬間に消えてしまう。(p.52)
物語によって意味を回復することと引き換えに、悪のほんとうの意味でのおそろしさが見えなくなってしまう。 ここに困難がある。と書くと抽象的に思えるが、記念碑や博物館をつくるときには具体的な問題である。
 
加害者は覚えていない。被害者は、悪に意味があったことにしたい。では、悪の無意味さ=愚かさをどのように記憶すればいいのか。加害者のように忘れるのではなく、被害者のように物語をつくるのでもない、第三の道を模索していく。
 
 

 

新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

 

 

ゲンロン10

ゲンロン10