「知らないこと」と向き合う~『知ってるつもり 無知の科学』、『知の果てへの旅』

知ってるつもり――無知の科学

どんどん便利になっていく世の中、自動化が進み、いろんなことが簡単にできる。便利なものに囲まれる生活の中で、身近なもののしくみをどれだけ知っているだろうか、と考えてみる。たとえば、水洗トイレで水が流れる原理は?、と。
 
トイレは毎日のように使ってるから分かるよと思いつつ、いざ説明しようとすると難しいという人が多いのではないか。身の回りのものであっても、原理や作り方に少しでも踏み込むと、すぐに知らないことがでてくる。そして、それを誰かが知っていて、実際に作ったからこそいまの生活がある、という当たり前の事実に驚く。
 
このような例から、スローマン&ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』 (早川書房)で述べられていることは2つ。人は自分の知識が実際よりも多いと錯覚してしまうこと、知識はコミュニティの中に分業化されていることだ。

まず知識の錯覚について。認知科学による証拠を挙げている。実験手順は、「あなたは○○をどれくらい理解していますか。7段階評価で答えてください」と理解度を聞いた上で、具体的な内容の説明を求める。そしてそのあとに、もう一度理解度を聞く。すると、理解度の自己評価は、1回目よりも2回目で低くなることがわかったという。つまり、説明をしようとすると、思ったより知らないことを自覚するのだ。それまでは、自分の知識を多めに見積もっている。

 
このような錯覚は、ときに悲惨な結果をもたらす。知ってるつもりになると、人は過信してしまい、リスクを低く見積もり、愚かな失敗をする。その一方で、新しい領域に踏み込む自信を与えるという錯覚によるメリットも指摘している。
 
次に、知識のコミュニティについて。膨大な情報があふれる現代では、ひとりですべての知識を担うことはできないし、その必要もない。水洗トイレはしくみを知らなくても利用できるし、インターネットの原理を知らなくても、Google検索を使うことはできる。つまり、多くの人にとって重要なのは、どのように使えるか、だ。原理レベルの知識を担うのは少数でよくて、それらの知識を連携させることによって、高度な文明がつくられ、いまの社会が成り立っている。その意味で、知識はコミュニティの中にある。
 
コミュニティで知識を増やしていくことで、個人は効率的に情報にアクセスできるようになった。しかし、そのせいで所属するコミュニティのバイアスをうける危険性があるという。例としては、政治や宗教のコミュニティによって、科学への見方が変わることを示している。
  
知識の錯覚とコミュニティについて見てきたが、この2つは無関係ではない。
知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティで生きているからであり、自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないためだ。物事の仕組みについての知識は自分の頭の中に入っていると思っているが、実際にはその大部分は環境や他者から得ている。これは認知の特徴であると同時に、バグである。(p.143)
 バグなので、錯覚は避けられない。そして、コミュニティの影響も避けられない。ではどうするか。これらの影響が不可避であることを前提に、錯覚の弊害や知っていることの範囲を自覚することが重要。具体的には、誰かにかみ砕いた説明をしてみるとか。
 
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知の果てへの旅

マーカス・デュ・ソートイ『知の果てへの旅』(新潮クレスト・ブックス)は、科学はすべてを知りえるのか、という壮大な問いに向き合った本。その道筋は、抽象的ではなく、極めて具体的だ。知の限界に近づくために、身近な話題から出発してサイエンスの到達点までを丁寧に案内してくれる。確率・カオス・素粒子量子力学・宇宙・時間論・神経科学など、テーマはかなり広く、本当に一人で書いたのかと思うくらい。
 
この知の歴史をたどる過程でわかるのは、ここから先はもう知ることができない、と思われた限界を何回も乗り越えて、科学者は新しい発見を繰り返してきたということだ。1835年に哲学者のオーギュスト・コントは「われわれは金輪際、どんなやり方でも、恒星の化学組成や星の鉱物学的な構造を研究することはできない」といったが、その後、数十年して星が発する光スペクトルから太陽の化学組成が判明した。このように科学は技術を武器に理論を更新し続け、観測できる宇宙は広がり、考えられる粒子の最小単位は小さくなった。
 
一方で、わからないことがわかるという例も存在する。たとえば、不確定性原理がある。微小スケールでは、粒子の位置と運動量を同時に知ることはできないというものだ。だから、量子力学では不確かさを統計的に扱うことにとどまる。このような問題では、ここまでわかっている、という線引きを明確にすることが重要になる。
 
印象的だったのは、さらに掘り下げて、不確定性原理は不可知を意味しているのかと問うところ。ここで言語の問題に触れている。
知識の限界の中心には、言語の限界がある場合が多い。しかし、これも進化し変わっていくのだろう。確かに、こと意識を巡る疑問に関しては、言語が問題の源だと見る哲学者が多い。量子力学を理解することがなぜこんなに難しいのかというと、量子物理学の概念を扱う際に使える言語が数学に限られるからだ。数学で表現されることを日常生活で使われている言葉に翻訳しようとすると、ひどい不条理が生じるため、量子物理学そのものが難易度が高い分野になるのだ。したがって、位置と運動量を同時に知ることができないというのは、ほんとうの不可知ではない。むしろそれは、数学から自然言語への翻訳がうまくいっていないことの証なのである。(p.505)
まだしっかりと理解できていないが、スケールによって位置とか運動量という概念自体が妥当でない、ということだろうか。つまり、知りえないのではなく、そもそもそんなものはない?画像データに情報量はあるけど、質量はないみたいな?その発想はなかった。