『トラクターの世界史』と『団地団』

高校までの歴史の授業が苦手だった。なんとなく、つかみづらい。いまから振り返ると、その原因は授業の内容が政治史を重視で、その政治にあまり興味がもてなかったということが大きい。

歴史は、政治以外のさまざまなものからも語ることができる。たとえば、話題になったハラリの『サピエンス全史』は、「虚構」を軸にしてサピエンスの歴史をとらえるという試みだった。もちろん、国家という虚構がもたらした政治への影響、みたいなかたちで政治にも触れているが。

そもそも歴史における重要な出来事とはなんだろう。それは、さまざまなものの個別の歴史における転換点だと思う。そういう意味で、影響範囲が広い政治史は重要だが、その重要性を理解するには政治史以外の歴史を参照する必要がある。なにか興味あるものの歴史をさかのぼってみて、教科書的な歴史との相似関係を見つけていくというような。

最近読んだ本で『トラクターの世界史』はまさにそういう本だった。

トラクターを軸にして、19世紀末以降の世界史を描いていく。なぜトラクターか。まず、トラクターの影響力を簡潔に示している部分を引用する。

モータリゼイションは都市だけでなく、農村の風景も労働関係も一変するほどの衝撃を与えたし、その衝撃がなければ、これほどまでに農村から人は離れず、これほどまでに農地が広く四角く平らにならず、これほどまでに地球の人口は増えなかったはずだからである。二〇世紀に地球でいったい何が起こったのかを考えるには、自動車と同じほどの知のパトスをトラクターに注がなくてはならない。

トラクターの登場により、それまで家畜を動力源としていた農業のあり方はがらりと変わった。内燃機関がもたらす駆動力が高い生産性を可能にし、農業人口は減少していく。これがのちに都市化や工業化を準備することになる。同時に、エネルギー源として石油、たい肥の代わりに化学肥料が必要とされるようになり、物質の循環(つまり農村の経済)という意味でも変化が起こる。

トラクター以降、農業は大規模化し、アメリカでは各農家の競争と革新のなかでトラクターが普及した。一方、ソ連では国家主導でトラクターで導入が進んだ。その後、トラクターは農業集団化のシンボル的存在になる。実はそのトラクターはアメリカで量産された輸入品だった、というのはなんともおもしろい話だ。

トラクターのでてくる小説にも触れている。ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』の描写からトラクターへの憎しみを読み取る。これは零細農家の憤怒だという。その背景には、機械化によってどんどん効率を高めるために、土地を収用しようとする銀行がある。ほかにも、機械による疎外感を読み取れる。これも歴史上何度も繰り返していることに思える。いまなら人工知能とか。

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ひとつのものを軸にして語る、そして農村から都市への人口移動に関連するという意味で連想した本は、『団地団~ベランダから見渡す映画論』。

団地団 ?ベランダから見渡す映画論?

団地団 ?ベランダから見渡す映画論?

 

 写真家の大山顕、脚本家の佐藤大、ライターの速水健朗によるトークイベントがまとめられている本書の軸は、ずばり団地。速水健朗によるまえがきには、

作品に登場する”団地”にのみ執着し、団地がどう描かれたか、団地がどう用いられたか、その団地が魅力的かどうか、団地についてレビューをします。

とあり、

 団地とは、家族を容れる箱であり、都市化した社会に必要とされたインフラストラクチャーであり、国によっては、ある種の社会階級と結びついた場所であり、ある種の人々にとっては生まれ育ってきた環境(故郷)です。

 団地について語るということは、時には家族を、社会を、階級を語ることになるのです。

とある。まじで?って思うけど、読んでいくと、なるほどすごい。コンテンツに描かれる団地から次々と意味を拾い上げていき、価値観の移り変わりを見て取る。扱う作品は『童夢』、『ウルトラマン』、『耳をすませば』、『しとやかな獣』、『家族ゲーム』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『デジモンアドベンチャー』などなど。あるときは憧れの対象、あるときは窮屈な空間、またあるときはバトルシーンの観客席にもなる。軸をつくることで、なんとなく見ていたシーンから意味が見つかる瞬間の楽しさ。もうなにを見ても団地が気になってしまう。