テクノロジーと秩序~G.K.チェスタトン『木曜の男』、イアン・ゲートリー『通勤の社会史』

 G.K.チェスタトン『木曜の男』の冒頭を紹介するとこんな感じになる。
 とあるきっかけから、主人公は無政府主義者の秘密結社にたどり着く。見事な立ち回りの末に、指導的立場を得る。首脳の会議は7名からなり、それぞれに曜日の名前がついている。主人公は木曜。初参加となる会議で、皆から恐れられている議長=日曜は「この中に裏切り者がいる」と言う。会議に緊張が走り、メンバー同士の探り合いが始まる・・。

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

 

  こうして書くとスパイものに見えるが、ジャンルにおさまりそうもない。推理、幻想、怪奇などなどの成分が入り交じる。理屈に合わない、ルールがわからない、敵か味方かわからない、そんな雰囲気が常に漂っている。基底をなすテーマは、秩序と無秩序の対立。冒頭にある二人の詩人の論争に端的に表れている。一人は無秩序こそ芸術であり詩的だといい、もう一人は秩序こそ詩的だという。どちらが主人公かは伏せておく。
 具体例として出てくるのが、ちょうどこの作品が書かれた当時広まっていた地下鉄である。一部引用する。会話がおもしろいのも本書の魅力だ。

「芸術家はすべての政府を無視して、いっさいの因習を破棄する。詩人は秩序をきらって、もしそうでなければ、世の中でいちばん、詩的なものは、地下鉄だっていうことになる」
「地下鉄に乗っている会社員や労働者がなぜあんなに疲れて悲しそうな顔をしているか君は知っているだろうか。あれは皆、自分たちが行くべき方向にちゃんと行って、切符に書いてある行先に必ず付くことを知っているからなのだ。スローン・スクエア駅を過ぎたら、次はヴィクトリアで、ヴィクトリア以外の駅ではないことを知っているからなのだ。もし次の駅がどういうわけかベーカー・ストリートだったりしたら、あの連中も目は星のように輝いて、魂がもう一度エデンの楽園に帰った気分に浸ることができる」

 対するきり返しは、こうだ。

「無秩序というのは退屈なもので、それは無秩序ならばベーカー・ストリートかバグダッドか、どこに行くのかわからないからだ。しかし人間は魔法を使って、ヴィクトリアというと、そのとおりにヴィクトリアに着く。詩だの、散文だのの本なんていうのは、つまらないものなので、それよりも僕は時間表を読んでいるとうれし泣きに泣きたくなる。人間の敗北を歌ったバイロンよりも、その勝利を語るブラッドショーの時間表のほうが、どんなにいいかわからない。僕は断然ブラッドショーのほうを取る」

 個人的には、時刻表こそ秩序であり勝利という考え方に惹かれる。もちろん本も好きだけど。他方で、この考え方に拒否感を示す人がいることも知っている。新しい秩序への拒否感とでも言おうか。この拒否感は、新しいテクノロジーやライフスタイルが現れるときに必ずついて回る。まっとうな指摘になることもあるが、漠然としたものも多い。結果的に新しいものの革新性を示していることも少なくない。

 鉄道もその例にもれない。イアン・ゲートリーは『通勤の社会史』のなかで、鉄道が普及していく過程を記し、その批判例を紹介している。

ジョン・ラスキン(一八一九年~一九〇〇年)をはじめとするイギリスの唯美主義者たちも、鉄道を利用すべきでないと考えていた。ラスキンの意見は、鉄道がもたらすスピードや便利さが人々から人間性を奪っていく、というものだった。

人間性を奪う」というのが定型だ。これはいったい何を指しているのだろう。注意したい表現のひとつ。AIが話題になる昨今、テクノロジーがもたらす新しい秩序(あるいは無秩序)の議論はまた変わってきそう。なにせ、「人間性」がつくれるかもしれないので。


 ちなみに『木曜の男』が発表された1908年は、T型フォードが発売された年でもある。T型フォードは自動車を大衆化したといわれる。そこには、ライン式の生産工場で量産を効率化し、自動車の価格を引き下げたという背景がある。ここで、決められた仕事を反復することが労働者へ悪影響を与えるという指摘が入る。
 『木曜の男』でも自動車は登場するが、まだ通勤の主流ではなさそうだ。そのかわり、馬車が使われているのだろう。通勤の手段が馬車から車に切り替わっていくところも『通勤の社会史』の見どころ。車通勤の問題といったら渋滞がすぐ思い浮かぶけど、そこを遊んで見せた映画『ラ・ラ・ランド』のオープニング良かったなぁ。

通勤の社会史 (ヒストリカルスタディーズ17)

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