ボケとツッコミから考える~『勉強の哲学』、『一億総ツッコミ時代』

千葉雅也『勉強の哲学』(文藝春秋)を読んでいて、槙田雄司『一億総ツッコミ時代』(星海社新書)を連想したという話。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

人生の根底に革命を起こす「深い」勉強、その原理と実践。勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。だが人はおそらく、変身を恐れるから勉強を恐れている。思想界をリードする気鋭の哲学者による本格的勉強論。 

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

 

 ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難―。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ過多」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打破し、面白い人生にするために!異才・槙田雄司(マキタスポーツ)による現代日本への熱き提言。

『勉強の哲学』を読んでいて思ったのは、思考のスタイルを「ボケ」と「ツッコミ」で整理している本を前にも読んだような気がするということ。あと、著者のお二人がNHKの「哲子の部屋」という番組で共演しているのを見た記憶。(千葉雅也さんは哲学者。槙田雄司さんは芸人・ミュージシャン・俳優で、芸名はマキタスポーツ。)そんな連想の末に、『一億総ツッコミ時代』を再読した(出版されてからもうすぐ5年!?)。

似ているところがあったので、まずそこから。一周回る三段階のプロセスについて。

『勉強の哲学』では、勉強の過程が次のように説明される。まず、環境に依存した保守的な状態(ノリ)がある。勉強を始めると、そのノリから浮くようになる。そして最後の段階として、新しいノリへ移行する。

一億総ツッコミ時代』には、受動層・浮動層・求道層という三段階が出てくる。受動層は物事に関して完全に受け身の状態。求道層は自ら求めていく人たち。浮動層はその中間にあたる。受動層・浮動層・求道層は、保守的(ベタ)・ツッコミ(メタ)・ボケ(ベタ)とも言い換えられる。そのような見取り図の中で、「メタからベタへ」という主張がなされる。

どちらも螺旋階段的に一周回るイメージで共通している。このイメージはよくわかるし、様々なところに現れる。例えば、読書量が増えていったときに、昔面白かった本がよくあるパターンの一つに思えてくるけど、もう一段文脈が読めるようになると、再び面白くなるというような。

 

この二冊を連想したきっかけは、「ボケ」と「ツッコミ」で思考スタイルを整理するところだと書いた。しかし再読してみると、言葉は同じだが、意味しているところはやや異なると気づく。それはフォーカスしているところの違いからくるものだと思う。

『勉強の哲学』におけるボケとツッコミは、環境のコード(「こうするもんだ」)から浮くための思考方法である。アイロニーとユーモア、破壊と拡張とも言い換えている。その過程で喪失がある。自己破壊を経験するというのが、この勉強論のポイントだと思った。

一億総ツッコミ時代』では、ツッコミがあふれている状況に注目する。いわば、ツッコミが環境のコードになってしまっている状態。「噛んだ!」に代表されるお笑いのコードが日常に入ってきて、閉塞感を生んでいると指摘する。そこで、人にツッコミを入れるより、自分が何かに夢中になること(ボケ)の面白さを説く。

ちなみに『勉強の哲学』でも、アイロニー過剰が問題だという記述がある。

 アイロニーが過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になる。それは実現不可能な欲望である。(中略)

 そこで、アイロニーをやりすぎずにユーモアに折り返す。

さらに先には、ユーモアの過剰もナンセンスへと進んでいってしまい、それを止めるのが「享楽的こだわり」だという。『一億総ツッコミ時代』における「ボケ」は、『勉強の哲学』におけるユーモアよりも「享楽的こだわり」に対応するような気がする。もしくは両方を含んでいる。この意味の広がりについて意識できたのは、すごく新鮮だった。*1

『勉強の哲学』は言語論をベースに、『一億総ツッコミ時代』はお笑いをベースにしている。全然違うようだけど、共鳴する部分がけっこうあるように思えた。言語論方面への興味がわいてきた。

 

・余談

『勉強の哲学』のキーワードである「仮固定」から連想したのは、細田守のアニメーション映画『時をかける少女』。保守的状態から際限のないナンセンスへ、そのあと有限化するという流れは、『時かけ』のループできる回数(の認識)の変化(0⇒無限?⇒有限)と同じ。ループに回数制限あるから今はループしないでおこう、というのは「仮固定」そのものだなぁと。

 

 

 

決定版 一億総ツッコミ時代 (講談社文庫)

決定版 一億総ツッコミ時代 (講談社文庫)

 

 

*1:一億総ツッコミ時代』を初めて読んだとき(あるいは東京ポッド許可局で聞いたとき?)、「ボケ」と「ツッコミ」の整理は分かりやすいが、「ボケ」の用法を拡張しすぎでは、という印象を受けたことを思い出した。もう慣れたので、思い出すと新鮮な感じ。当時、この「ボケ」の比喩は、かなり大胆だったはず。